東伊豆町稲取に残る 江戸城無血開城で活躍した 勝 海舟 高橋泥舟 山岡鉄舟(幕末三舟)の書。 |
徳川家最後の将軍・徳川慶喜 |
江戸開城は、江戸時代末期の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われました。 江戸城の新政府への引渡しとそれに至る一連の交渉過程をさします。この江戸城明渡は江戸城無血開城(えどむけつかいじょう)として知られ、徳川宗家の本拠、江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件です。 この江戸城無血開城に大きな役割をした勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の三名は「幕末三舟」と呼ばれ、その功績を後世まで語り継がれてきました。 東伊豆町稲取には山岡鉄舟との交流を持ち、稲取村を明治の模範村にまで発展させた醫学士・西山五郎先生の存在がありました。 江戸城の大改修を命じた徳川家康と改修時の築城石採石、徳川家最後の将軍、徳川吉宗の無血開城に関わった人々とのつながりを持つ稲取、何かの縁を感じます。 参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
勝海舟 |
高橋泥舟 |
山岡鉄舟 |
醫学士・西山五郎は山岡鉄舟が開祖した全生庵の門下生として医学の道を学んでいました。
東京帝国大学・医學大学校を卒業し、山岡鉄舟のすすめで廃藩置県により初代静岡県知事になる予定の関口隆吉の下、静岡市に赴任する予定でしたが、
鉄道事故による関口隆吉の急逝により、山岡鉄舟の弟子、下川津村見高の真行寺にて病人の診療に当たりました。
西山五郎の存在を知った稲取村長・田村又吉によって稲取村に招聘。村より土地を付与され病棟を建設したのです。その後、流行病であった赤痢の原因を飲み水にあると判断、田村又吉村長と共に、国内では日本人による最も古い水道施設を敷設、娯楽の少ない若者のために東京青梅より「ばかばやし」を伝授したりと東伊豆町稲取にとって、絶大な功績を残したのです。また、山岡鉄舟とのつながりによって、高橋泥舟も稲取の地を訪れたと云われ、勝海舟の書も残されることとなったのです。「縦の糸は歴史〜、横の糸は人〜・・」中島みゆきさんの歌詞のように歴史と人が紡がれたようですね。
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