東伊豆ecoツーリズム協議会が運営する「東伊豆町の築城石」HPがサイトアップされました。
http://chikujyoseki.higashiizu-ecotourism.com/
東伊豆町内各所に点在する角石が一覧で閲覧することが出来ます。
各石丁場、刻印石のPHOTOなど見所満載のHP、是非アクセスを!
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今まであまり気にしていませんでしたが、事実無根の立て看板に怒り爆発です。
太田道灌と熱川温泉、全く関係ありません。 歴史上、いかなる文献を探しても伊豆熱川と太田道灌を結びつける文章が出てこないのです。しかも築城石と太田道灌は無縁なのです。
築城する際、石垣に関して石を切り出して城郭にしたのは徳川時代になってからのこと。豊臣時代以前の築城は全て野面積み、つまり石材は切り出すことをせず、自然石のまま積み上げて城郭としていたのです。
唯一、秀吉が攻め入った北条の小田原城攻めの際、一夜城を造成した石垣に一部、打込積みが採用され切り出し石材が使用されたことが遺構から確認されています。つまり豊臣時代の城郭石材切り出しはこの一例だけなのです。 豊臣秀吉の小田原征伐は1590年、太田道灌没年は1486年。 国内のいかなる城郭を見ても1590年以前の石垣は全て野面積みとなっているのです。
百年以上前にこの世を去った太田道灌が石材切り出しを伊豆で行ったとは奇想天外、全くあり得ないこと。太田道灌が関東管領・扇谷定正の名により江戸城を築城したのは1457年であり、平山城として築城され、石垣は全て野面積みのため石材の切り出しは行われていません。 1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康によって1603年、天下普請の命が下り、江戸城の大改修が始まったのが1604年。
時の幕府は天下普請により豊臣方に加担した西国大名に対して経済制裁とも言える築城石石材調達を命じたのです。つまり、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利していなければ天下普請の命が下ること無く、江戸城改修のための石材切り出しは行われなかったのです。
また立て看板内「村人たちは皆こぞって築城石の切り出しに・・」とありますが、江戸城大改修の時、伊豆東海岸は天領地であり住民は幕府と同等の人格を持っていました。古文書より石材切り出しに際し地元の村民は使用人とするべからず・・、といった内容の厳しい発令がされ「仕事中、雑談するな」「喧嘩はするな」「村民に迷惑を掛けるな」「時間を守れ」「石材の寸法を守れ」など禁止事項が記載されていたのです。
たった一枚の立て看板ですが・・、観光客を欺く立て看板。
2014年、熱川温泉観光協会より築城石に関する書籍が発行されました。こちらも江戸城築城石採石は太田道灌の遺言といった記載がありますが、全くの嘘であり、何の根拠もありません。 観光協会費より制作費が捻出されているようですが協会費には町からの補助が出されています。つまり税金が使われているのです。 嘘も百年言い続ければ事実・・まるで隣国がするようなことが我が町でされていると思うと情けない気持ちで一杯です。 立て看板は即撤去、書籍は即回収すべきでしょう。(書籍は図書館書棚から引き上げられました。)
また、熱川温泉が太田道灌を持ち出したのは、歴史深い稲取とは異なり歴史的な逸話が無い熱川に何か逸話を、と苦慮した昭和30年代?の観光協会事務局が「奈良本一丁目一番地」の地名(住人の名字?)であった「太田」。そこでふと浮かんだのが太田道灌。あまりにも稚拙な思いつき。さらに巻狩に来た太田道灌が発見とは・・。
当時の巻狩とは大規模な軍事演習を意味します。関東管領・扇谷定正の筆頭幹部であった道灌が陸路で大隊組んで伊豆山中を抜け東海岸に来る訳がありません。さらに当時の道灌の行動を考査すれば、東伊豆に立ち寄る時間など全くないほど多忙を極めていたのです。駿府での交渉事の後、韮山の堀越公方に報告によったことは史実で確認されていますが、その後直ちに江戸に帰還しているのです。
海岸沿いに建つ太田道灌像は西伊豆町仁科出身で日本を代表する彫刻家・堤達夫先生の作品です。道灌と熱川温泉が全く関係ないことを知りつつ道灌像を制作したのであれば特に問題ないと思いますが、根拠の無い話を持ちかけて制作して頂いたとなると大いに問題ありではないでしょうか。
一昨日、花ちらしの雨と風が過ぎて伊豆大島、雲、海、青空、日の出の競艶が春を演出していました。
北川石丁場からの風景です。
3月、休みの度に雨に祟られ石丁場探索も小休止状態。
日々暖かくなると様々な生物が出没し、
山中の石丁場はオフシーズンに入ります。
残り少ないオンシーズン、4月に入り早速、石丁場散策なのです。
写真は北川地区、熱川に貫く東浦路沿いのみかん畑跡。
みかん畑造成時の石垣に組み込まれてしまった矢穴石です。
矢穴石というより切り出し途中の母岩なのです。
母岩左側は既に切り取られ、岩体の上部に矢割跡が残されていました。
矢穴幅は大きく、慶長時代の採石跡と思われますが、
周囲の矢穴石の矢穴幅は比較的小さく、採石時代が混在した石丁場となっています。
この矢穴石から南方向の急斜面、尾根に向かって巨大な自然石が点在しているのですが、
採石した痕跡が全くありません。
尾根最上部付近にある巨石を見て納得しました。
この付近の石は脆く、板状にはがれる状態で割れてしまうのです。
約四百年前の石工達、玄人仕事していました。
今月に入り石丁場探索を予定していた日程がことごとく雨に祟られ、
約3週間ぶりの石丁場探索となりました。
本林石丁場にて一ヶ月前に堆積物と雑草を取り除いた大型矢割石に再会。
雨に洗われた石面は見事なまでに白く、美しい姿を見せてくれました。
また、約4ヶ月前に向山石丁場にて堆積物を取り除いた矢穴石には、
堆積物取り除き時に全く気付かなかった刻印、釘抜紋が確認出来たのです。
更に孟宗竹とシダの生い茂る中、突然現れた大型矢穴石に驚愕。
十回以上探索に入っている石丁場でも未だ新しい発見が続いています。
詳細は東伊豆江戸城築城石石丁場ホームページで。
写真は向山石丁場に隣接するみかん畑最上部から志津摩海岸~藤三払い~池尻海岸~伊豆大島を望んでいます。
昨日、国道135号線北川トンネル伊東方面出口左側竹林内を探索しました。
先月末、国道から見える巨石まで潜入しましたが、
僅か数十メートル先に、これほどまで大規模な石丁場が存在するとは思いませんでした。
丁場内は治水のためか水路が造成され、旧国道からの不法投棄による廃棄物が散乱、
朽ちた孟宗竹や堆積物、落石で荒れ放題となっているのです。
伊豆急行線伊豆北川駅改札口付近の石丁場から続く丁場で、
国道で分断されていますが、旧道を横切り、古道・東浦路付近まで丁場が存在したようです。
北川エリアの石丁場は北川駅を中心に、
小規模な丁場が点在すると思われてきましたが、
最近、近隣を探索するにつれ、北川漁港付近に繋がる数本の沢沿いに、
北川エリア全域に達する大規模な石丁場であることが判明してきました。
詳細は東伊豆江戸城築城石石丁場ホームページにて。
東伊豆町稲取地区、本林石丁場の大割石。
全体を覆っていた堆積物と蔦、雑草を取り除くと見事な矢穴が現れました。
この大割石、静岡県の調査では「角石」切り出し後の残石とされていましたが、
堆積物等の取り除きで現れた「矢穴」は「天端石(城壁最上段に使用される築城石)」採石の丁場跡とではないかと思わせます。
長さ300cm、高さ146cm、幅156cm。
「角石」として加工されても第一級の築城石になったことでしょう。
東伊豆江戸城築城石石丁場ページのブログを開設しました。
石丁場探索のTOPICSを随時情報アップ致します。
写真は、
下田方向に南下する国道135号線、北川トンネル手前山側(右手側)竹藪に見える巨石です。国道から見える巨石は4~5mほどですが、実際には最下部から10m近い大岩であることが判明、周囲は巨大転石群であることが確認出来ました。
巨石の中には矢穴、矢割跡があり築城石採石の石丁場で、伊豆急行線伊豆北川駅改札口付近の石丁場から連続する大規模な丁場跡であることが窺われます。
現在は国道135号線によって分断されていますが、旧国道からの潜入により周辺の沢や傾斜面に巨大な岩が点在していることが確認出来たのです。堆積物や不法投棄の廃棄物、朽ちた竹や蔦で全体像を把握することが困難ですが、しっかりした調査の実施で新たな発見が期待出来る石丁場の一つであると思われます。