伊豆國稲取・向山石丁場。 行方不明になっていた刻印石大岩、再発見!

 平成八年、東伊豆町教育委員会より発行された「東伊豆町の築城石」に記載されていた向山石丁場に存在していた大型刻印石が長年、行方不明となっていました。近年、町内の貴重な石丁場が宿泊施設によって破壊されたり、海岸線に点在していた築城石(角石)がダイバー進入路造成や防波堤造成のため破壊され、コンクリートに混ぜられたりと築城石災難が発生していたため、行方不明の大型刻印石も既に存在していないのではないかと危惧していました。

伊豆國稲取・向山石丁場内。国道135号線から志津摩海岸に続く畦道土手下の巨石。

 先日、石丁場跡を残す国道135号線から稲取・志津摩海岸に続く畦道を調査したところ、一昨年前まで鬱蒼とツタの絡まる土手脇の視界が開けていたのです。開けた視界の土手下に巨大な大岩が視界に飛び込んできました。
  畦道から見下ろした石面に明確な刻印を確認することは出来ませんでした。周辺に矢割石の存在を確認していましたので石丁場があったことは確かです。
 石材を切り出した石工が巨大な岩体を見逃すわけがありません。「何か刻まれている筈」という核心の基、畦道を駆け下りニューサマーオレンジが実る木々を掻き分けて巨石に近づいたのです。

巨石海側石面に刻まれた「△」と「+」の組み合わせ刻印。

 巨大な岩体は最高部で約4m、横幅6~7mの大岩です。近づく石面を見て思わず「オッ~!」と雄叫びを上げました。「△」に「+」の組み合わせ刻印が刻まれているではありませんか。ということは平成八年発行の資料に記載されていた大岩に間違いありません。資料記載の大岩なら反対面には二つの刻印が刻まれているはずです。
  刻印の存在を確かめるため、背後に回り込んで再び雄叫び!
 石面左側に刻まれていたのは松平土左守・山内忠義の刻印と思われる「#型紋」(土佐藩第二代藩主・山内忠義のみ土左藩…人偏無とされています)。石面右側には有馬玄蕃頭豊氏の代表紋「釘抜紋」だったのです。
「△」と「+」の刻印は加賀藩・前田家の刻印であると推測できます。

松平土左守・山内忠義の家臣団と思われる「井形紋」。
有馬玄蕃頭豊氏(ありまげんばのかみとようじ)の代表紋「釘抜紋」。

 元和年間、松平土左守・山内忠義から加賀藩・前田家に稲取の石丁場譲り渡しがあったことが古文書で確認されています。巨石の刻印は石丁場譲り渡しの証拠といえるでしょう。その後、寛永時代に入り有馬玄蕃頭豊氏の担当丁場となったようです。同丁場内には備前平戸藩第三代藩主の松浦隆信も担当丁場を持っていました。
 松浦隆信は慶長一九年、徳川家康により駿府城に呼び出され、江戸城改修の城普請(天下普請)への参加を要請されています。隣接する本林石丁場内三ヶ所から松浦隆信の刻印が見つかっています。付近の矢割石に残された矢穴跡から慶長時代の作業と思われ、家康からの命を受けた直後、松浦家は稲取本林石丁場に担当丁場を持ったと思われます。この松浦隆信の代表紋「三輪紋(三つ星紋)」が刻まれた巨石が3つの刻印入る巨石近くに存在することが平成八年発行の資料に記載されていたのですが、所在が不明となっていました。
 記載内容の記憶を頼りに付近を調査、露草とツタに覆われた巨石を見つけ、覆っていた露草とツタを払いのけて現れたのは見事な「三輪紋」。三度目の雄叫びを上げたのです。

備前平戸藩第三代藩主・松浦隆信の代表紋「三輪紋(三つ星紋)」。

行方不明になっていた刻印石大岩、再発見の瞬間でした。

何故、此所に!?、?、?。 あるはずのない場所で見つかった江戸城築城石切出残石。 埋蔵文化財を破壊、放置した行政の怠慢を問う。

 2018年、晩秋のことでした。
 伊豆稲取に来ていた知人にジオサイトを見せようと静岡県立稲取高校より北西方向、約1kmに位置する噴火口跡(一万数千年前に噴火)のスコリア火口壁と火山弾のある場所を案内したときのことです。
 秋の深まりを全く感じることが出来ない陽気に、例年では下草が枯れ、火口壁への侵入が容易になるのですが、この年は下草が繁茂、火口壁への侵入を断念しました。火口壁への入り口付近は整地されているため、クルマを容易に回すことが可能です。ジオサイトを見せることが叶わず、無念に感じながら帰路に着こうとクルマを回したその時、ススキの茂みの片隅に置かれた石の上辺に見覚えのある形状が視界に入りました。

「・・んっ?、エッ・・、何で・・?」

 横に乗っている知人は、何があったのかと怪訝そうな顔で私の顔を覗き込んでいます。「チョット待ってて・・。」と知人を置き去りにして視界に飛び込んできた石に駆け寄りました。
 ススキの茂みの背後に隠れていた大量の巨石が現れ、思わず絶句そして驚愕。

 今まで、数千の江戸城築城石の切出残石を見て、脳裏に刻まれた築城石形状の記憶領域が確立されている自身の能力に自ら驚かされました。クルマを回す際、見覚えのある形状は矢割跡であることを確認。ススキの茂みの背後に隠されていた巨石は、見事な江戸城築城石切出残石だったのです。
 知人にジオサイトを見せることは叶いませんでしたが、「思わぬ場所」で四百有余年の歴史の痕跡を見せることが出来たのです。

 築城石残石の巨石を見つけた場所は「思わぬ場所」なのです。
 地質的にスコリア火山の噴火口内と確認されている地勢で、火口からの噴出物は主に赤色スコリア。溶岩流が確認されていないエリアなので、築城石となる玄武岩は噴出していない筈です。
 私の頭の中は多数の「?」で満たされました。
 知人を宿舎まで送り届け「?」で満たされた頭をフル回転させ、東伊豆町文化審議会の会長、黒川さんにさっそくTEL。黒川さんは東伊豆町の築城石研究では知る人ぞ知る方なのです。

 黒川さんとは現場で待ち合わせ、到着を待つ間、改めて切出石材を調査。矢割跡の大きさから徳川家康の手伝普請(城普請、公儀普請)より始まった築城石採石開始直後の慶長時代から徳川家光の普請、寛永時代の採石跡まで時代は様々。約二十の巨石に矢割跡が確認出来たのです。刻印は確認出来なかったため、放置された築城石残石を採石した大名家を確定することは不可能でした。

 現場に到着した黒川さんから開口一番、「これは以前、築城石公園の計画があったとき、大川地区から持ってきた石だ!こんなところに隠してあるとは酷いなぁ・・。ここは役場が管理する土地だから隠しやすかったんだろう。」築城石公園は、現在の東伊豆町商工会横の公園が予定されていたらしいのですが計画は頓挫。現地には大川地区から運び込んだ刻印が刻まれた築城石(刻まれている分銅紋から堀尾吉晴担当丁場から運び出された石材)でモニュメントが設置されています。
 私が師と仰ぐ岡田善十郎さん(2018年末、ご逝去されました。残念です。)はモニュメントや町内に点在する石丁場から運び出した貴重な築城石に関して「なぜ、貴重な文化財を石丁場から運び出したりするんだ。そんなことは決してあってはならない。」と行政の歴史・文化に対する意識の低さを嘆いておられました。

 あるはずのない場所に放置された江戸城築城石切出残石。周囲の樹木の成長具合から放置後、約20年近く経過していると思われます。東伊豆町総務課及び教育委員会には放置石材について情報提供しました。
 原状復帰として元の位置に戻すことは、運び出し現場が確定できないので不可能でしょう。貴重な文化財を運び出し、不要だからと人の目に触れない様、ススキの茂みの背後に隠した行政の責任の取り方を問いたいと思います。
 せめて、至近距離にある噴火口跡の火口壁と火山弾と併せて、本来あるべきはずのない場所に放置した江戸城築城石切出石材ですが、慶長時代から寛永時代までの採石矢穴跡が見学できる場所として看板を作成、観光客の皆様に見ていただくというプランぐらいの立案は起てるべきでしょう。

静岡県東伊豆町稲取の食文化、「黄飯(きめし)」のルーツを辿る。

 静岡県東伊豆町稲取には「黄飯(きめし)」と呼ばれる食文化が伝承しています。「黄飯(きめし)」はクチナシの実で黄色く染められたごはんで子供たちの健康を願う雛まつりやお祝い事の振る舞いとして食されてきました。

黄飯。臼杵では「おうはん」、東伊豆町稲取では「きめし」
名古屋では「きいはん」と呼ばれています

 クチナシの実で黄色く染められたご飯は大分県臼杵地方にも存在、「黄飯(おうはん)」と呼ばれているのです。東伊豆町の「きめし」と大分県臼杵の「おうはん」に意外な接点を見つけました。

 臼杵は戦国時代のキリシタン武将として有名な大友宗麟(おおともそうりん)、大友氏21代当主の支配下にあった土地です。臼杵城の前身と云われる丹生島城を築城した大友宗麟は、キリシタンとして海外貿易による経済力に優れ、欧州の食文化にも興味を持っていたことでしょう。そのような環境下、バテレンとしてスペインから入国した宣教師によってパエリアが持ち込まれたと思われます。パエリアはサフランによって色付けされますが、サフランが手に入らなかった臼杵では代用としてクチナシを使用したのでしょう。

大友宗麟。

 クチナシにはクロセチンという成分が含まれ疲れ目の回復や睡眠の質を改善することが確認されているほか、栄養価が高く鎮痛・鎮静作用、解熱、消炎作用、止血作用の効果があります。現代風に云えば「サプリメントご飯」と言えるでしょう。この様な効果を知っていたかどうかは判りませんが大友宗麟が配下の家臣たちに振る舞っていたことと思われます。家臣の一人として名を連ねていたのが後の立花飛騨守宗茂であったのです。

大友宗麟の家臣であった立花宗茂。
クチナシの実。

 臼杵城の前身、丹生島城  (にゅうじまじょう)  は天正14年、島津軍の侵攻に遭います。落城寸前まで追い込まれた大友宗麟は城に籠城しますがポルトガル伝来の大砲を使って落城を免れ、その後、援軍を依頼していた 豊臣軍の到着で秀吉の九州平定となったのです。落城寸前の丹生島城場内にて栄養豊富な「黄飯(おうはん)」が戦士を奮い立たせていたのかも知れません。

現在の臼杵城。

 豊臣秀吉の死後、五大老の一人・徳川家康と五奉行の一人・石田三成との確執が激化。慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦を迎え、関ヶ原に勝利した家康の時代となっていったのです。豊臣時代、大友宗麟の嫡男・義統の卑怯な振る舞いに激怒した秀吉によって、大友氏は臼杵を含む豊後一国を改易され、同地は関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った稲葉家によって臼杵藩が築かれました。

 徳川家康は慶長8年、征夷大将軍として江戸に入り、江戸幕府を創設。翌年、手伝普請(城普請、天下普請)として全国13城の改修を命じます。この普請で国家を挙げての事業となったのが江戸の町の造営と江戸城の修築でした。江戸城修築にあたり神奈川県西部地区から伊豆東海岸は築上石採石地として、多くの西国大名が石丁場を形成、その一人として伊豆地区に担当石丁場を持っていたのが立花飛騨守宗茂であったのです。東伊豆地区では伊豆國大川に石丁場を持ち、大川から切り出した石材を運ぶ積載船は、伊豆國稲取に停泊させていたのです。つまり、大友宗麟の家臣であった立花宗茂配下の石工達と操船人夫は稲取の地に存在したことが伺えます。彼らが疲れ知らずの屈強な体を保っていた食材として「おうはん」の存在を知った稲取の人々が「きめし」として後世まで食文化を残したことが東伊豆町稲取の食文化「黄飯(きめし)」のルーツかもしれません。

稲葉典通像(大分県臼杵市・月桂寺所蔵)。

 手伝普請、13城修築の対象となった名古屋城の修築事業(20大名家による修築)には伊豆地区に石丁場を持っていた臼杵藩第2代藩主、稲葉典通が携わっています。名古屋市を中心とした地域にも「黄飯(きいはん)」として黒豆を乗せ、端午の節句に振る舞われる食文化が存在しています。名古屋と東伊豆町稲取に伝承する「黄飯」は、大友宗麟が「サプリメントご飯」として落城寸前の丹生島城で振る舞った栄養満点の「クチナシご飯」がルーツなのかもしれません。

※以上内容は筆者による仮説です。史実は確認されていません。

つるし雛伝承廻廊 「西伝承廻廊」「北伝承廻廊」が見えてきた。

江戸城築城石について調べていると伊豆の石材切り出しに付随して、江戸時代の様々なことが推測できる事案に出合う様になりました。
その一つ、静岡県東伊豆町稲取が発祥とされている「つるし雛」。(現在、稲取では「雛のつるし飾り」と告知されていますが当ブログでは古来からの呼称「つるし雛」と記載します。)
福岡県柳川市の「さげもん」、山形県酒田市の「傘福」、静岡県東伊豆町稲取の「つるし雛」は日本三大つるし飾りとして知られています。日本三大つるし雛の地が江戸城築城石採石の歴史と密接に繋がっていたのです。

さげもん(写真参照:柳川市 http://www.city.yanagawa.fukuoka.jp)

傘福(写真参照:山形県 https://www.pref.yamagata.jp/)

東伊豆町稲取のつるし雛。

徳川家康の天下普請に始まった江戸城大改修。慶長期から寛永期に至るまで徳川三代の城普請は断続的に発令されていました。神奈川県西部から伊豆東海岸は、江戸城築城石採石地として主に西国大名によって多くの石丁場が設けられたのです。慶長、元和期では天領地であった地元村民を採石に従事させることは、幕府からの厳しいお達しで禁じられていましたが寛永十三年、三代将軍・徳川家光の普請発令による江戸城外堀工事が始まると尾張大納言、紀州大納言、水戸中納言の徳川御三家に至るまで築城石採石普請が発令され、地元村民も適切な報酬を支払うことで築城石採石に関わる作業に従事させることが可能となったのです。

伊豆國稲取村は築城石採石期、天然の良港として築城石石載船の係留地となっていました。伊豆東海岸では石丁場至近の港として川奈、稲取、下田が主な港であったことが細川家古文書によって確認されています。稲取村も大規模な石丁場が設けられ寛永十三年の普請では有馬左衛門佐直純、山崎甲斐守家治、稲葉淡路守紀通、九鬼大和守久隆ほか有力大名が石丁場を担当していました。
隣村の堀川(現北川)村、大川村には紀伊大納言頼宣、立花飛騨守宗茂、戸川土佐守正安、平岡石見守重勝、桑山左衛門佐一玄ほかが採石にあたり稲取村に船を掛け、船を回して江戸まで築城石を運んでいたのです。これら大名の中で、多くの武将から尊敬の念を抱かれていた立花飛騨守宗茂は、柳河(現柳川)藩初代藩主として知られていますが関ヶ原の戦いでは西軍として参戦。敗戦により領地を没収され改易となり、浪人の身分にまでなってしまいましたが後に再び柳河藩主となったのです。関ヶ原の戦いで西軍に就き、改易された後、再び同じ領地の藩主として返り咲いた唯一の大名なのです。
2018年2月、東伊豆町大川にて発見された刻印により立花飛騨守宗茂担当石丁場の存在が決定的となりました。「○に左(崩し字)」の刻印は「立左(りゅうさ)」の 呼称を持っていた立花飛騨守宗茂、その人なのです。

立花飛騨守宗茂(写真参照:Wikipedia)。

築城石残石の刻まれた立花飛騨守宗茂の刻印。

時代背景から推察すると寛永十三年以降、伊豆國稲取村には各地から多くの石工が集まり、石材調達に従事した報酬かつ天領地であったことから、かなり裕福な土地柄であったと思われます。
雛飾りは平安時代の「ひいな遊び」が起源(諸説あります)とされています。寛永期では「寛永雛」と云われ、現在の雅な段飾りとは異なり男雛と女雛の二体だけが飾られる簡素な形態でした。寛永時代、優雅に繁栄した稲取村民は簡素であった寛永雛の両脇につるし雛を飾り、繁栄の象徴としたのかもしれません(現在の伝承内容とは異なります)。大川村で採石作業に当たっていた立花飛騨守宗茂の担当丁場の石工たちが石載船を稲取村から回す際、このつるし飾りを目にして江戸城築城石採石終了後、自國の柳河藩に持ち帰り「さげもん」として伝承されたのかもしれません。「つるし雛伝承西廻廊」を思わせます。

では、「つるし雛伝承北廻廊」の推察です。
寛永十三年、三代将軍・徳川家光は江戸城外堀普請のほか日光東照宮大造営の事業にも着手しています。元和二年に崩御した徳川家康の遺言により亡骸は久能山東照宮に埋葬され増上寺にて葬儀を行いました。翌年、東照大権現として神格化された御霊は日光東照宮に祀られたのです。幕府は家康の一周忌に合わせて日光に東照宮を建造していますが家光によって寛永十三年に大造営を行い現在同様の規模になったと云われています。

日光東照宮 陽明門(写真参照:Wikipedia)

あまり知られていませんが日光東照宮造営時や修築時に伊豆の石材が使われていたのです。築城石の様な大型石材を日光まで運ぶことは恐らく不可能であったと思われますが、石段利用などの石材は河川を遡ることで日光まで運んだようです。石段状の石材は稲取村の南側隣村、尾張大納言義直の担当丁場、耳高村(現河津町見高)田尻川北側の磯丁場からも切り出され、現在でも石段状石材の残石が大量に残されています。
また寛永時代以降、元禄年間、宝永年間には大地震等の天災により江戸城石垣、日光東照宮の修築が度々行われてきました。
日光東照宮の修築に関する資料を読み解く中、宝永年間の作事奉行として活躍した鈴木長頼の逸話に遭遇したのです。鈴木長頼は日光東照宮修築の際、伊豆から切り出した石材を運搬中、運搬船の不都合で日光まで運ぶこと出来なくなったため、現在の千葉県市川市に現存する弘法寺(ぐほうじ)の石段に幕府の許可を取らず石材を利用してしまったのです。この事実が幕府の知れるところとなり、長頼はその責任を取り石段の途中で切腹、切腹した場所の位置する石は彼の無念の血しぶきと涙で濡れ、現在でも乾くことなく「なみだ石」として現存しているのです。

なみだ石(写真参照:Wikipedia)

宝永年間、日光東照宮修理の割り当てと出費がかさみ赤字藩へと転落したのが現在の酒田市を含む庄内藩だったのです。
伊豆の石材切り出しと日光東照宮の修築、日光東照宮修築担当藩であった庄内藩の酒田へ続くつるし雛伝承廻廊が見えたのです。
(上記は史実を踏まえた筆者の推測です。)

2017年10月、二週続けて襲来した台風が残した東伊豆町稲取、磯脇石丁場に姿を現した刻印石。

2017年10月、日本列島を二週続けて台風が襲来しました。東伊豆町稲取の磯脇石丁場内に広がる磯丁場は台風による大波で地形が変わる程、大きな影響を受けていたのです。
遊歩道の防波堤を越えた大波は、防波堤内を海水で満たし、満たした海水に大波が襲いかかり遊歩道直上の民家石垣を波で洗ったのです。
地形の変化が気になっていましたが、磯丁場への探索機会がなく、状況を把握していませんでしたので二年ぶりに磯を歩いてみました。
東伊豆町稲取田町地区の堤防から磯釣りで有名な黒根岬に続く遊歩道の終端。台風の大波に洗われた民家の石垣と隣接する土手に驚愕、興奮、大絶叫の江戸城築城石が姿を現していたのです。

▲民家の石垣に組み込まれた矢割石。松平土佐守の刻印が二つ刻まれている。

▲「○に二」「柏一葉」の組み合わせ刻印近景。

民家石垣に組み込まれた矢割石に「○に二」「柏一葉」の刻印が刻まれているではありませんか。使用大名は松平土佐守。新発見の刻印です。隣接する土手には角石まで確認出来たのです。

▲土手から姿を現した角石。

▲角石の上に根を下ろした松の木。

海岸線に目を向けると大型角石。おそらく積船時に落下させてしまい江戸まで運ばれることがなかった石材でしょう。石材を移動時に落下させると落城に繋がるとして、江戸まで運ばれることがなかったのです。

▲積船時、落下させてしまった波打ち際の角石。

今回の発見は、磯脇石丁場で確認されていた「越前」の刻字と刻印、多数の矢穴が開けられた大岩と崖上に鎮座する「進上 松平土佐守」の銘文が入る角石の存在から松平土佐守こと山内忠義の大規模石丁場の存在を裏付ける証となるでしょう。

詳細はhttp://www.chikujohseki.com/isowaki.html

東伊豆町稲取、町内を流れる大川流域に江戸城築城石採石の大規模な石丁場の痕跡を見た!新たな刻印も発見!

静岡県東伊豆町稲取、湿原が広がる細野高原を源流域に持つ「大川」は、山中から急斜面を下り、伊豆急行線・伊豆稲取駅の下を流れ東伊豆町庁舎近くの稲取港に流れ込んでいます。
伊豆稲取駅から大川上流方向を見ると稲取特産の柑橘類が栽培される大規模なみかん畑を見ることが出来ます。みかん畑は南斜面に切り開かれ、大規模な石垣を築いて降り注ぐ太陽光を効率よく利用するための工夫がされています。石垣に利用されている石材に江戸城築城石、大石丁場が存在した痕跡を見ることが出来るのです。

大型矢割跡を残す矢割石。採石は間違いなく慶長時代。

比較的矢穴幅が小さい矢割石。作業は寛永時代以降。

同じ石垣に大型矢穴跡と小型矢穴跡、ドリルで開けられた跡が混在。江戸初期から近年までの時代を物語ります。

写真のように江戸城築城石採石の際、石材を切り出すため、矢割りされた石材の残石が石垣に組み込まれています。
慶長九年、徳川家康の城普請から始まった江戸城大改修事業は寛永十三年、徳川家光の普請後、寛永十六年に完了したといわれています。この石垣には慶長時代に採石した痕跡から寛永時代の採石、近年ドリルによって石材を加工した痕跡まで積み上がっているのです。この石垣周辺には、巨大な岩体が現在でも多数点在しています。その中の一つ、以前から気になっていた巨石がありました。
大川流域という地勢から鬱蒼とした竹林と高湿度な環境下、藪に入り込む度胸がなく、気になる巨石を眺めては溜息をついていましたが、例年にない低温が続いたおかげで巨石へのアクセスが容易になっていたのです。

いよいよ巨石に接近!
目に飛び込んできたのは、今まで確認されていなかった刻印、驚愕大興奮で一気に血圧急上昇となりました。

刻印が刻まれた巨石。刻印石の奥、石垣の手前はコンクリートで舗装された林道。

高さ約4m近い巨石に刻まれた刻印。「九」と「田」の組み合わせに見えますが・・。

初見したときは「大」と「田」に見えました。
「大」と「田」の刻印は場所が異なりますが近くの石丁場跡で確認されている刻印です。しかし、よく見ると「九」と「田」のようです。「田」の刻印は近くの愛宕山石丁場内で複数確認されています。「九」の刻印は沼津市戸田地区の石丁場、伊東市御石ヶ沢の石丁場で確認され、九鬼大和守久隆の刻印として確認されています。戸田石丁場と御石ヶ沢石丁場で確認される「九」の刻印は非常に類似していますが、今回見つかった「九」の刻印は両石丁場の刻印とは異なっているのです。
細川家文書の「伊豆石場之覚」によると寛永十二年前後、九鬼大和守久隆が稲取に担当石丁場を保有していた記載があります。付近のみかん畑から見つかっている「卍」の刻印が九鬼大和守久隆の刻印ではないかといわれていましたが今回、「九」の刻印が発見されたことで同大名家による採石場所が特定できたと思われます。
戸田石丁場と御石ヶ沢石丁場付近、細川古文書にて稲取同様、寛永十二年前後に九鬼大和守採石の記録があります。同じ大名家の別班がそれぞれの石丁場に入ったため、刻印の形状に相違があったのかもしれません。

今回の刻印発見場所付近は、おそらく数十年前まで大量の築城石残石が転がっていたことでしょう。現在では柑橘類栽培の石垣に姿を変えていますが、巨大な自然転石が点在する場所も残っています。未踏査箇所があるため、今後の調査により大発見があるかもしれません。

静岡県東伊豆町稲取の道祖神・八百比丘尼の謎に迫る!

 

静岡県東伊豆町稲取に現存する道祖神・八百比丘尼。

伊豆東海岸、稲取東町に「八百比丘尼(やおびくに)」と言われる道祖神が現存しています。道祖神は伊豆の凝灰岩で丸彫り坐像、神奈川県西部エリアから伊豆東海岸に分布する伊豆型道祖神の形態となっています。
「八百比丘尼」と言われる所以は、稲取の地を訪れた民俗学者・折口信夫先生により当時、現存していた状態から像が女神像で手に持つ素材を見て「八百比丘尼」であると判断したようです。
「八百比丘尼」とは日本各地に語られている伝説ですが日本海側、若狭湾地域で語られる伝説で知られています。
若狭国の庄屋の娘が浜で拾った人魚の肉を振る舞われた際、気味悪がって食さなかった村人達の中、娘だけが食べてしまい、その後800年生き続けたという伝説。現在の福井県小浜市には、八百比丘尼が入定したとされる洞窟が有り、入定地に残る石像と仏殿内の八百比丘尼像が稲取に残る道祖神に類似していたことも一つの根拠となり、道祖神は八百比丘尼とされたようです。
東伊豆町内には多くの道祖神が現存していますが、片瀬地区の道祖神も稲取の八百比丘尼像とやや似ているため、私は稲取東地区の道祖神は八百比丘尼ではないのでは、と疑問に思っていました。

福井県小浜市、八百比丘尼入場の地。

現在、様々な江戸城築城石に関わる研究をする中、熱海市伊豆山礼拝堂石丁場より「羽柴丹後守 けい長九年」の刻字が入った刻印石が見つかっていることを知ったのです。

伊豆山礼拝堂石丁場から発見された「羽柴丹後守 けい長九年」と刻まれた刻印石。

羽柴丹後守・・、丹後宮津藩の初代藩主・京極高知のことです。八百比丘尼伝説が残る若狭湾に面した一国を領主としていました。また高知県、山内神社資料館に残る文献資料に「伊豆國稲取」の文字と共に「京極丹後守」の文字が記されていたのです。八百比丘尼伝説が残る若狭と伊豆稲取が繋がりました。
さらに全国行脚をしたと言われる八百比丘尼は四国地方も訪ね、いくつかの八百比丘尼伝説を残しています。その中、高知県須崎市の神社には八百比丘尼塔が現存し、「高知県保護有形文化財」に指定されています。この神社の名称は「賀茂神社」・・。地元では「賀茂さま」と呼ばれ親しまれています。東伊豆町稲取を含む伊豆南部地方は「賀茂」と呼ばれていますが偶然の一致でしょうか?
更に香川県三豊市高瀬町の威徳院・勝造寺にも八百比丘尼塔が現存しています。建立は古く永和4年3月6日(1378年)とされています。年月を経て散失してしまった塔を再建したのは丹後宮津藩の系譜から繋がる丸亀藩・京極家なのです。再建は1678年、江戸城改修終了の1637年から約40年後、丸亀藩主・京極高豊による再建でした。

高知県須崎市「賀茂神社」に存在する八百比丘尼の塔。

香川県三豊市高瀬町の威徳院・勝造寺の八百比丘尼塔。

伊豆稲取に残る八百比丘尼像と江戸城改修の大号令を発した徳川家康の天下普請により、伊豆の地に石丁場を求めた丹後宮津藩の京極家。丹後宮津藩の系譜が繋がる丸亀藩京極家が再建した八百比丘尼塔。四国を行脚した八百比丘尼伝説が残る須崎の賀茂神社。そして、賀茂地区の稲取。歴史が織りなす物語が一つの線となって稲取の八百比丘尼像となっているようです。
伊豆稲取に採石地を求めた京極家の石工が、目の前の広がる相模湾を望み我が故郷、若狭の海を思い出し、若狭に残る八百比丘尼伝説を石像として帰郷の思いを形にしたのが伊豆稲取東町に残る道祖神「八百比丘尼」かもしれません。

東伊豆町の築城石HP開設

東伊豆町の築城石HP

東伊豆ecoツーリズム協議会運営「東伊豆町の築城石」HP

東伊豆ecoツーリズム協議会が運営する「東伊豆町の築城石」HPがサイトアップされました。

http://chikujyoseki.higashiizu-ecotourism.com/

東伊豆町内各所に点在する角石が一覧で閲覧することが出来ます。
各石丁場、刻印石のPHOTOなど見所満載のHP、是非アクセスを!

向山石丁場からの眺望

 

向山石丁場より

向山石丁場隣接のみかん畑最上部からの眺望

今月に入り石丁場探索を予定していた日程がことごとく雨に祟られ、
約3週間ぶりの石丁場探索となりました。

本林石丁場にて一ヶ月前に堆積物と雑草を取り除いた大型矢割石に再会。
雨に洗われた石面は見事なまでに白く、美しい姿を見せてくれました。

また、約4ヶ月前に向山石丁場にて堆積物を取り除いた矢穴石には、
堆積物取り除き時に全く気付かなかった刻印、釘抜紋が確認出来たのです。
更に孟宗竹とシダの生い茂る中、突然現れた大型矢穴石に驚愕。

十回以上探索に入っている石丁場でも未だ新しい発見が続いています。
詳細は東伊豆江戸城築城石石丁場ホームページで。

写真は向山石丁場に隣接するみかん畑最上部から志津摩海岸~藤三払い~池尻海岸~伊豆大島を望んでいます。

本林石丁場 「天端石」切出丁場・・?

本林石丁場大割石

「天端石」採石を思わせる矢穴。

東伊豆町稲取地区、本林石丁場の大割石。
全体を覆っていた堆積物と蔦、雑草を取り除くと見事な矢穴が現れました。
この大割石、静岡県の調査では「角石」切り出し後の残石とされていましたが、
堆積物等の取り除きで現れた「矢穴」は「天端石(城壁最上段に使用される築城石)」採石の丁場跡とではないかと思わせます。

長さ300cm、高さ146cm、幅156cm。
「角石」として加工されても第一級の築城石になったことでしょう。

詳細は東伊豆江戸城築城石石丁場ホームページ