久能山東照宮参拝之覚

 令和四年三月以来のブログ更新になります。
 令和六年、五月のとある木曜日。駿河久能山東照宮に参詣してきました。クルマのナビ通り到着した久能山下駐車場から見上げた果てしない階段に恐れを感じ、躊躇無くロープウェイ日本平駅に移動・・・。ロープウェイにて久能山駅まで向かいました。

 標高307メートルの有渡山(久能山)の起伏に富んだ山体を眼下に見ながらロープウェイは快適に久能山駅に到着。 

二の丸石垣
東照宮側ロープウェイ乗降駅至近、かつて存在した久能山城二ノ丸の石垣

 東照宮駅到着直前、進行方向右側に石垣が見えてきました。ロープウェイ内の解説によると今川氏により山城として築城された久能山城、今川氏から武田信玄の手に渡った際の二の丸跡の石垣であるようです。

 石垣をよく見ると矢割りされた跡が確認出来るため、武田家から徳川家の所有に移った際、慶長年間以降、石垣の積み直しが行われたのではないかと思われます。

 ロープウェイを降車していよいよ久能山東照宮へ・・・

楼門
重要文化財に指定されている「楼門」

 社務所横を通り過ぎると視界に入ってくる見事な門が国の重要文化財に指定されている「楼門」です。

唐門
拝殿正面にある「唐門」
鼓楼
鐘楼として建造された「鼓楼」

 「唐門」までの石畳を進むと右側に「鼓楼」が見えてきます。双方とも国の重要文化財に指定されている見応えある建造物です。
 周辺の石垣を見ると慶長時代以降、積み直された痕跡がありました。元和二年四月十七日に徳川家康公が逝去していますので、そのタイミングで大幅な改修に伴う石垣の積み直し、造成が行われたのでしょう。

 矢割跡が見つかったいくつかの石材です。

矢割石垣01
矢割幅から元和時代以降の石材ではないかと思われます
算木積み
明確な算木積みではありませんが角石、角脇石で組み合わされている石垣です
調整石垣
下の石材に合わせて接する面を調整した石垣

 御祭神・徳川家康公をおまつりする「本殿」と参拝をするための「拝殿」を「石の間」で連結した「権現造(ごんげんづくり)」様式。豪華絢爛な「御社殿」。

御社殿
元和三年に建立された「拝殿」国宝に認定されています
御社殿
江戸幕府大工棟梁・中井大和守正清の代表的な遺構

 久能山東照宮の御社殿には「逆さ葵」が見学可能なエリアに三ヶ所、立入禁止エリアに一ヶ所あるそうです。

逆さ葵
軒下飾り金具の「逆さ葵」

 建造物周辺の石垣に目を向けると明らかに石鑿跡と思われる刻み跡が確認出来ます。
 何が刻まれているのかは不明です。
 石材に付着している苔や汚れを落としたいのですが、国の重要文化財、国宝に指定されている史跡です。
 撮影のみして帰宅後、DATAを加工してみました。

石鑿跡
建造物周辺の石垣に残されている石鑿跡
DATA加工写真
DATAを加工して石鑿跡を際立たせてみました

 いよいよ徳川家康公・神廟に向かいます。
 廟門を抜けると青空が突然曇り、大粒の雨が・・・
 家康公から参詣を拒否されているのかと思いつつ、雨を避ける事無く廟所参道を進み、神廟直前まで歩を進めると大粒の雨が止み、青空が拡がったのです。
 江戸城築城石採石地研究を本格的に開始して十年目、家康公より「宜しゅう頼み申す・・」と言われているような感じを受けたのです。
 神廟前にて手を合わせ江戸城築城石、駿府城築城石採石地研究の安全を祈願して参りました。

徳川家康公・神廟 ここに御祭神、家康公の御遺骸が埋葬されています
 徳川家康公・神廟を後にして参道両脇に立つ寄進された石塔に目を向けると見覚えのある文字が刻まれています。  文字を読み込もうと石塔を一塔一塔見て回りました。
 一人で石塔を凝視する姿は異様に見えたかもしれません。
鍋島勝茂公 寄進石塔
肥前佐賀藩主・鍋島信濃守勝茂公寄進の石塔です
鍋島勝茂公 寄進石塔
この石塔も鍋島信濃守勝茂公寄進の石塔です
山内忠義寄進石塔
土佐藩第二代藩主・山内忠義寄進の石塔
山内忠義寄進石塔
松平土左守(山内忠義)寄進の石塔
土左守叙任の際、朝廷書記が土左守(佐→左)としたため忠義公のみ土左守と表記されます
石塔は「土佐守」と刻まれています
米倉丹後守寄進石塔
米倉丹後守寄進の石塔です
近江膳所藩主・石川忠総寄進の石塔です
この石塔について知人を引き連れた殿方が「これが石川数正寄進の石塔だ」と解説していました
石川数正は徳川家より出奔して豊臣家に帰順、関ヶ原の戦前に死没しています
石川数正寄進の石塔は有り得ないのですが・・・

 今回、久能山東照宮への参詣はロープウェイを利用しましたが、次回参詣の際は千百五十九段の石段を登ってお参りしたいと思います。

久能山東照宮ロープウェイ往復動画はこちら

江戸城築城石石丁場の調査研究で静岡県河津地区の奥深い史実に遭遇!

江戸城築城石の採石地、石丁場跡の調査研究を行っていると意外な史実と遭遇することがあります。

江戸城は平安時代末期から鎌倉時代初期に存在していた武蔵江戸氏初代当主・江戸重継の居館から始まり享徳6年(1457)、平山城として扇谷上杉家の家臣・太田道灌により陣屋として築かれた経緯を経て天正18年(1590)、天下人となった豊臣秀吉の命により徳川家康が駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・川中島を除く信濃国5ヶ国を召し上げられ北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封となった際、湿地帯に建っていた江戸城に入城後、家康による大改修を迎えるのです。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は慶長8年(1603)、征夷大将軍として江戸幕府を開き、江戸の街の造成に着手、慶長9年(1604)には江戸城の大改修である公儀普請(手伝普請、城普請ともいわれ後世になって天下普請と呼称されるようになりました)を発令したのです。公儀普請は江戸城に留まらず、江戸城改修の普請発令後、名古屋城、大坂城、高田城、駿府城、伊賀上野城、加納城、福井城、彦根城、膳所城、二条城、丹波亀山城、篠山城の築城改修に至りました。
江戸城改修は三代将軍・徳川家光の寛永時代まで続き、家光の普請では外堀工事の大事業を開始。外堀工事にあたっては徳川御三家まで石材の調達をするよう命が下ったのです。

筆者は「徳川御三家とは何者・・?」という疑問が頭をよぎりました。
「徳川」を名乗るほどなのだから身分が高いのであろう、と思い調べたところ、あまりにも意外な史実に遭遇することとなったのです。

徳川御三家とは紀州徳川家、尾張徳川家、水戸徳川家の三家で徳川親藩の最高位で三つ葉葵の家紋使用が認められた別格の家系であり、将軍家の血筋が途絶えた場合、徳川御三家から将軍が選出される事となっていました。つまり、徳川家が途絶えることなく、無嗣断絶による改易を避けるための家系なのです。
徳川御三家の祖、紀州徳川家は徳川頼宣(家康十男)、尾張徳川家は徳川義直(家康九男)、水戸徳川家は徳川頼房(家康十一男)で徳川頼宣と徳川頼房は家康の側室であったお万の方が生母です。
徳川家康には2人の正室と19人の側室がいて、16人の子供が居たとされ、お万の方は家康54歳の時、17歳で側室に入っています。家康・・、なかなかの「暴れん棒将軍」だったようです。

紀州徳川家祖・徳川頼宣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

水戸徳川家祖・徳川頼房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

家康54歳の時、17歳で側室となり徳川御三家の内、二家の生母であるお万の方の生涯に興味を持ち、少々調べてみたところ思わぬ史実と遭遇しました。

お万の方は天正5年(1577)、智光院(北条氏隆の娘とされていますが北条氏尭の娘または田中泰行の娘であるといった諸説があります)と勝浦正木氏の当主・正木頼忠との間に安房勝浦で生誕しています。

父である正木頼忠は安房里見家の家臣である正木時忠を父としていましたが時忠が里見家からの独立を図り、北条氏康に接近。その影響で嫡男である頼忠は、12歳にして小田原城に人質として赴き、数年間暮らしましたが北条から手厚い待遇を受け、智光院を正室に迎え、お万の方を授かっています。頼忠はその後の家督相続で房総に帰国。里見八勇士として活躍したという伝承があるのです。里見八勇士はその後、江戸時代の文筆家・滝沢馬琴により「南総里見八犬伝」として壮大な物語となって文壇に登場しました。

頼忠が房総に戻る際、正室であった智光院と離縁。その後、頼忠は里見家から後室を迎えています。娘のお万の方は智光院と共に小田原に残されることになったのです。頼忠と離縁した智光院は、天正12年(1584)北条氏直に仕え且つ伊豆國河津笹原城々主の蔭山氏広の正室となっています。お万の方を養女に迎えた蔭山氏広は、北条の家臣として秀吉の北条攻めの際、山中城の籠城軍に参加していましたが落城と共に妻子を連れて伊豆國河津笹原城に戻りました。その後、伊豆國修善寺に蟄居したとされていますが定かではありません。

徳川家康の関東移封の際、三島に陣を置いた家康の身辺世話役であった江川家が長身で器量良く才女であったお万の方を接待役に任命、そこで家康に見初められたお万の方は側室となったのです。側室になるには源氏の系譜でなければなりません。そこでお万の方は蔭山家から江川家の養女となり文禄2年(1593)、家康の側室となりました。
その後、伏見城において慶長7年(1602)3月7日には頼宣(紀州大納言)を、慶長8年(1603)8月10日には頼房(水戸中納言)を生んでいます。
側室となったお万の方の呼称は城内では「蔭山殿」と呼ばれ、家康逝去後は出家して「養珠院」となっています。

徳川将軍家は7代将軍・徳川家継が8歳で逝去したため8代将軍は紀州徳川家から選出されました。選出されたのは暴れん坊将軍のモデルとなった徳川吉宗です。吉宗が「暴れん棒」であったかどうかは定かではありません。
その後、14代将軍までお万の方の血筋である紀州徳川家から将軍が選出されたのです。

また、お万の方は「天下の副将軍・水戸黄門」様の祖母にあたり、現代の歴史物語において、その貢献度は絶大なモノがあります。

千葉県勝浦市八幡岬公園(勝浦城跡)にある、お万の方(養珠院)像  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

お万の方を取り巻く逸話は大変多く、父方の正木頼忠は勝浦にて敵に攻められた際、伊豆國河津庄に一時期、身を寄せていたという云い伝えがあります。また、頼忠の系譜を探ると令和天皇から遡って15代前の後奈良天皇とは縁戚関係となり、現在の令和天皇とは直系の家系(男系・女系合わせて)であることが判明しました。同時期の縁戚には14代前の正親町天皇(おおぎまちてんのう)に蘭奢待(らんじゃたい・・聖武天皇時代に中国から渡来した香木)を送り付けた織田信長、信長を討伐した明智光秀が存在しています。

現在、静岡県河津町峰地区を中心に50家近く存在する正木姓が正木頼忠由来の姓で系譜が繋がっているとすれば、お万の方直系の徳川8代将軍・徳川吉宗から14代将軍・徳川家茂まで、また水戸黄門様(水戸光圀)とは縁戚関係となるのです。また、その系譜は天皇家から分岐した家系であるかも知れないのです。

三代将軍・徳川家光の江戸城外堀造営普請にあたって、紀州徳川家は西湘地区から伊豆に掛けて多くの石丁場を担当していますが、河津地区至近の東ノ浦耳高(現・河津町見高)には尾張徳川家が担当、紀州徳川家は距離を置いた東ノ浦堀川(現・東伊豆町北川)に石丁場を置いていました。
お万の方が滞在していた笹原城(現・河津城)の至近距離に紀州徳川家を担当させなかったのは、何か江戸幕府の思惑があったような気がします。

お万の方に関する話題は、まだまだ語り尽くすことが出来ません。静岡県河津町内・乗案寺にはお万の方愛用の籠が現存、同町林際寺にもお万の方ゆかりの資料が存在しているようです。
その他の逸話については、機会があれば続編にて・・・。

江戸城築城石石丁場研究家、駿府城の築城石採石地と云われる「小瀬戸石切場」を訊ねる。

江戸城の築城石を採石した石丁場跡をブログで紹介してきましたが、今回は江戸城に匹敵する城郭であり、徳川家康が秀忠に将軍職を継承した後、家康隠居の場所であった駿府城の築城石採石地と云われる藁科川(わらしながわ)に流れ込む沢の谷筋を訪れました。
石丁場への探索調査はスズメバチやマダニの遭遇リスクが低くなる11月下旬からシーズンインに入ります。今回訪れたのは9月下旬、夏の名残がまとわりつく肌感覚の中、クルマで潜入できる最深部まで入り、場所だけ確認して戻るつもりでいました。
「小瀬戸石切場登山口」の道標を確認したところ「石切場430m」の表示・・。 「430m先で矢穴を残す大岩と会える」と思うと歩みは既に登山道に向かっていました。スズメバチと一匹でも遭遇したら戻ろうと決めて登山道への潜入を始めたのです。登山道入り口周辺にはボランティアにより建てられた休憩小屋「小瀬戸石切庵」があり、登山道は下草が刈られ歩きやすい状態になっていました。ボランティアの方々には感謝です!

クルマで潜入できる林道の最深部。

ボランティアにより建設された「小瀬戸石切庵」。

登山道は上方に向かって右側を流れる沢沿いに整備されています。急斜面もあり登山道口に杖として利用する竹が用意されていることが頷けました。
江戸城の築城石採石地、加工場所は「石丁場」と表現しますが、静岡市小瀬戸では「石切場」と表現しているようです。

沢上流方向に進むなか、施設された砂防堤の多さに驚きました。
巨大な駿府城の城壁用石材を曳き出していた谷筋なら、必ず修羅(石材を運ぶ木製の枠組み)から落としてしまった石材が存在するはずです。修羅から落としてしまった石材は落城に繋がるとして城壁に利用されることはなく、その場に放置されるか修羅道(修羅に乗せた石材を運ぶための石曳道)に敷き詰める石として細かく割られ再利用されるのです。多数の砂防堤を建設するにあたり点在する自然転石の中に明らかに人的加工が加えられた石材に気が付くはずですが、気が付かなかったのでしょうか?
不思議に思いながら沢底や周辺を見ながら登山道を進みました。9月下旬ですが外気温は真夏日、そのため沢付近は下草が繁茂し点在する石材の詳細を確認出来ませんでした。見え隠れする石材には矢穴や矢割りされた痕跡はありません。
また、修羅道の存在を探しましたが非常に狭い谷筋、修羅道を造成する余裕は無いようです。沢中は自然転石が多数あるため、沢中を利用して切り出した石材の運び出しは不可能ではないでしょうか?登山道が修羅道跡では・・、と考えましたが、上方に向かって左側からの水流によって運び込まれた土砂が形成する尾根が存在するため修羅道の造成は出来ません。どのようなルートで石材の運び出しが行われたのか?下草が枯れる季節に再検証してみたいと思います。

登山道に入って約25分。「壱ノ石」に辿り着きました。
途中、小型のクマバチとの遭遇はありましたがスズメバチに出会うことはありませんでした。忽然と現れる巨石に驚愕、近づくと体長2m越のアオダイショウの出迎えを受けました。

忽然と現れる「壱ノ石」。高さは約5m。

「壱ノ石」周辺は竹や木が伐採され、ベンチが備えられ整備されています。巨石に開けられた矢穴は備えられたベンチの右側石面と巨石上部に確認出来ました。石面下部の矢穴は二つ。矢穴の直線上には矢穴を開けるためのケガキ石鑿跡が残されていました。

矢穴が開けられた石面。

石面下部に開けられた二つの矢穴とケガキ石鑿跡。

開けられた二つの矢穴幅は約7cm。矢穴幅7cmでは木製楔は使用されていません。作業は鉄製楔が使用された寛永時代であることを物語ります。
石面上部には横一文字に開けられた矢穴が確認出来ます。上部の矢穴幅も約7cmで作業は寛永時代です。整然と開けられた矢穴の下に見覚えのある石鑿跡を見つけました。矢穴を開け損なった石鑿跡なのか刻印なのか判断できませんが、江戸城築城石石丁場の伊豆國湯川(伊東市)桜ヶ洞丁場内(さくらがぼらちょうば)に存在する切出し残石の小口に酷似する石鑿跡が残されているのです。

石面上部に開けられた横一文字の矢穴列。

矢穴列下に刻まれた見覚えのある石鑿跡。

伊豆國湯川、桜ヶ洞石丁場に残る切出し残石。

桜ヶ洞石丁場の切出し残石小口に残り石鑿跡。

桜ヶ洞石丁場には複数の大名家が石材調達のために石丁場を担当していましたが、酷似する石鑿跡が残された石丁場付近には「輪違い紋」と「久紋」の刻印が多数見つかっています。「輪違い紋」を刻んだ大名家は賤ヶ岳の七本槍として名を連ねた脇坂安治ではないかと思われます。また、「久紋」を刻んだ大名家は久留島丹後守通春と思われ、「小瀬戸石切場」の「壱ノ石」に酷似する石鑿跡を刻んだ大名家は何れかの大名家である可能性があります。しかし関連する古文書や周辺石材の刻印が確認出来ないため推測の域を出ません。

矢穴が開けられた石面の裏側にあたる巨石の上部には、矢割面を残す作業痕と矢穴が確認出来ました。矢割りされた部分があるため切り落とされた残石が周囲に存在することが考慮できますが、繁茂した下草で確認することは出来ませんでした。
巨石上部裏側の矢穴幅は5cm~6cmでやはり寛永時代の作業痕であることを物語っています。矢割面に残された矢穴幅も最大で約8cm・・。
「小瀬戸石切場」は慶長12年の徳川家康による駿府城築城の公儀普請に伴う作業跡であると云われていますが、「壱ノ石」に残された矢穴は寛永時代の作業であることを物語っています。

「壱ノ石」上部裏側の矢割跡。

「壱ノ石」上部に残された矢割面。

「壱ノ石」から更に登山道を進むと規模の大きい石切場が残されていますが探索シーズンに入って季節に再び訪れたいと思います。それまで採石が行われた時代考証はお預けと致しましょう。

新発見された江戸城石垣の謎を解く!

2021年4月14日(水)、メディア各社より皇室に受け継がれた美術品を所蔵する三の丸尚蔵館の建て替え工事現場にて、現存石垣としては最古とみられる江戸城石垣発見の報道がされました。

新発見された石垣。
写真:Yahooニュース時事通信社記事より

石垣は幅約16m、高さ4mの七段積み。現場で確認していませんので詳細は解りませんが、メディアにて紹介された写真を見ると石垣は「打込みハギ粗積」の方法で構成され、複数の刻印が確認できます。石質は凝灰岩と安山岩が混在しているように見えます。明言できるのは太田道灌時代の石垣ではない、ということです。国内最古の打ち込みハギ城郭は秀吉の北条攻めの際に築城された一夜城(石垣山城)の城壁の一部とされています。一夜城築城以前の城壁は近江穴太衆に代表される野面積みなのです。太田道灌築城時代では石材を矢割して組み込むことはなく、石垣を組んだとしても野面積みであるため、新たに発見された石垣は太田道灌築城とは異なります。

それでは、神奈川県西部地区から伊豆半島各所に現存する江戸城築城石採石丁場内に残る刻印石より新たに発見された江戸城の石垣について考察してみましょう。

報道写真、映像で確認出来た刻印は「○に中」「は」「三頭巴紋」「○に一」「#型紋」ほか不明紋が複数刻まれていたようです。「は」と不明紋の刻印に関しては今まで見識がありませんので、恐らく石垣を組んだ大名家の家臣または石工の刻印ではないかと思われます。

「○に一」の刻印は備中国庭瀬藩二代藩主・戸川土佐守正安の担当石丁場内にて確認されていますが、筆者は見識が無いため定かではありません。

「#型紋」は複数の大名家が使用する刻印ですが、石垣が造成された時代背景から松平土左守であった土佐藩二代藩主・山内忠義(松平土左守・・「土佐」が「土左」となっているのは山内忠義が朝廷より土佐守の官位を賜った際、朝廷の書記が「土左守」と記述したため、土佐藩第二代藩主・山内忠義のみ「松平土左守」と記述されているのです)の刻印ではないかと思われます。写真の「#型紋」は東伊豆町稲取の本林石丁場内に現存する刻印石です。
詳細はhttps://www.edojyo.tokyo/honbayashi.html

松平土左守の刻印とされる「#型紋」。

「#型紋」近景。

「三頭巴紋」は伊予松山藩主・蒲生忠知(慶長十七年、松平姓を与えられています)の刻印であると思われます。写真は伊東市御石ヶ沢石丁場内に現存する「三頭巴紋」の刻印石です。石丁場内には大量の「三頭巴紋」が刻まれた石材が点在、刻印は「三頭巴紋」と「輪違い紋」または「+(クルス)紋」とセットで刻まれています。
「輪違い紋」を代表紋としていたのは賤ヶ岳の七本槍として有名な伊予国大洲藩初代藩主・脇坂安治です。伊予国内の大名家二家を代表する刻印が刻まれた石材が存在するということは、大名家間で協業または石丁場の譲り渡しがあったのかもしれません。(通常、石丁場の担当は一大名家とされ、大名家間で譲り渡しが成立しないと他大名家の担当石丁場から採石することは不可と定められていました)
詳細はhttps://www.edojyo.tokyo/chougai/oishigasawa.html

「三頭巴紋」と「+(クルス)紋」

「三頭巴紋」と「輪違い紋」。

「○に中」の刻印は新たに発見された城壁の造成時代を探る最も重要な刻印になります。
「○に中」の刻印は「三頭巴紋」同様、伊東市御石ヶ沢石丁場内より多数発見されている刻印の一つです。
熱海市に残る「聞間文書」には御石ヶ沢石丁場と思われる付近に「御林の間」と呼ばれる細川家の石丁場があったと記載があり、刻印は「○に中」であることが記されています。「○に中」の刻印は、羽柴越中守である細川忠興の刻印であることを意味する刻印とされ、羽柴越中守の「中」を記したと考えられています。しかし、伊豆各地に大規模石丁場を所有していた細川家石丁場から見つかる刻印で「○に中」の刻印は御石ヶ沢石丁場内の一つの谷筋だけなのです。
詳細はhttps://www.edojyo.tokyo/chougai/oishigasawa.html

美しい矢穴跡を残す「○に中」の刻印石。

細川家が羽柴姓に関わる刻印を刻んだということは慶長十九年、大坂の陣以前の刻印でしょう。大坂の陣で豊臣家滅亡後、徳川家が羽柴姓を使用した刻字を許すとは考えにくいのです。そのため細川家石丁場で使用される刻印は慶長十九年以降、細川家の代表紋である「九曜紋」または九曜紋の略刻印「九」を使用しているようです。「九曜紋」「九」の刻印は御石ヶ沢石丁場内にて確認され、隣接するナコウ山石丁場山頂付近からは「羽柴越中守石場」の銘文が刻まれた巨石が存在しています。
参照 https://www.edojyo.tokyo/chougai/nakou.html

細川家の代表紋「九曜紋」。

「九曜紋」近景。

「九」の刻印が刻まれた築城石残石。

「九」の刻印近景。

「○に中」の刻印については大阪城普請の際、松平宮内少が使用したという文書が確認されています。松平宮内少は備前国岡山藩二代藩主・池田忠雄(いけだただかつ)と思われ「○に中」の刻印石が多数存在する谷筋至近距離に「松平宮内少 石場」の銘文刻字巨石が現存することから池田忠雄の刻印である可能性があります。
池田忠雄は元和六年から開始された大阪城改築工事に参加、担当場所には蛸石、肥後石、振袖石という大坂城内有数の大巨石を次々と城壁に組込みました。また、岡山城の城郭整備、城下町の拡張整備といった大事業を行っています。
しかし、池田忠雄の生誕は慶長七年ですので、江戸城修築の公儀普請が発令された慶長九年では未だ二歳。池田忠雄は七歳で元服していますので、慶長時代後期の公儀普請以降の参加となり、慶長十九年の秀忠による公儀普請に参加は可能ですが同年、大坂の陣が勃発、江戸城改修の普請が中断していますので、元和以降の参加となるでしょう。大阪城改修工事の時は十八歳となっていますので辻褄が合います。
御石ヶ沢石丁場内に多数存在する「○に中」の刻印石ですが、石材を伐るために開けられた矢穴幅は慶長時代から始まり江戸城改修が終了する寛永時代までを物語ります。(矢穴幅により石材採石の時代が判ります。公儀普請直後の慶長時代では、開けられた矢穴に木製の楔を差し込み、水を掛けて木材の膨張を利用して石を割りました。時代が進み、石材切出し技術が発達すると楔は鉄製に変わり、矢穴幅は小さくなります)
参照 https://www.edojyo.tokyo/wordguide.html

「松平宮内少 石場」の至近距離にある「○に中」の刻印石。

山内文書や細川文書による「伊豆・相模石場之覚」では細川忠興は同地区(伊東市宇佐美)への採石について寛永六年の記録が残っていますが慶長、元和時代の採石記録が記載されていません。松平宮内少または池田忠雄については採石記録が残っていないのです。しかし、「松平宮内少 石場」と刻まれた銘文石の事実は現場に残っているのです。
つまり古文書の記載漏れ、または記載間違いがあったと判断できます。他石丁場の記載についても記載間違いを見つけていますので、古文書の記載内容を全て信用することは出来ません。
「○に中」の刻印石は誰の手になるものなのか?
謎は深まるばかりです。

メディアに掲載された写真から判断すると新たに発見された石垣の矢穴幅は慶長時代ではないでしょうか。現地にて刻印の形状、大きさ、開けられた矢穴幅、石材の石質、石材の組まれ方を実際に見てみないと石垣が組まれた時代が判断できません。
複数の刻印石が同一面に組まれていることから、採石大名と石垣を組んだ大名家は異なるようです。

ブログのタイトルを
「新発見された江戸城石垣の謎を解く。」としましたが、
謎を解く「○に中」の刻印が細川忠興なのか池田忠雄なのか確定出来ませんでしたので、新発見の石垣造成時代を確定させるに至りませんでした。
残念!

2015年7月4日から2019年12月31日までのメインサイト「東伊豆江戸城築城石石丁場」のアクセス状況報告

2015年7月4日に開設以来、多くの方々からメインサイトである「東伊豆江戸城築城石石丁場」にアクセス頂きました。
メインサイト開設後「東伊豆江戸城築城石石丁場ブログ」、「東伊豆江戸城築城石石丁場FaceBook」を続けて開設、2020年に入りYouTubeチャンネル「江戸城築城石石丁場動画之覚」を新設致しました。

メインサイト開設当初、筆者の居住地区である静岡県賀茂郡東伊豆町の石丁場をメインに紹介を進めたため、WEB名称を「東伊豆江戸城築城石石丁場」としましたが本格的な石丁場調査より約五年が経過、紹介地区も西湘地区から熱海、伊東、河津、伊豆西海岸、沼津市と広域になったため2020年1月よりブログ名称を「江戸城築城石石丁場之覚 雑記」、FaceBookは「江戸城築城石石丁場之覚」に変更、新設したYouTubeチャンネルは「江戸城築城石石丁場動画之覚」として「東伊豆」の名称を外すこととしました。また、2020年1月中にメインサイトの名称も「江戸城築城石石丁場之覚」に変更予定です。

YouTubeチャンネルの新設と各サイトの名称変更に伴い「東伊豆江戸城築城石石丁場」の名称サイトのアクセス状況を報告致します。

●2017年7月4日から2019年12月31日までの月次アクセス状況


2015年7月4日から2019年12月31日までのアクセス総数は2,239,654アクセスに昇りました。月次では2019年2月に178,289アクセスとなり突出しています。アクセス内容を検証したところ、西日本のケーブルテレビ局を中心にアクセスが急上昇、検索ワードは「伊豆大島沈没船」として検索されていました。
ブログ内に、伊豆大島近海で見つかり東京国立博物館に展示されている慶長小判の話題を掲載していたため、ブログに集中してアクセスされていたのです。
アクセス状況はメインサイトへのコンテンツの増加に伴いアクセス数は上昇しています。

サイト開設以来、掲載Photo枚数は2019年12月29日現在1,762枚となっています。

●年度アクセス状況

メインサイトへの年度アクセス状況はサイト開設以降順調に伸び、2019年度は年間100万アクセスまで今一歩というところでした。

●アクセス団体
WEBサーバーのLOG情報よりIPアドレスを分析してアクセス元を解析しています。固有名称の公表は控えますがアクセス団体分類は以下となります。海外からのアクセスについては支障ないと判断し、固有名称を公表致します。

【行政】
都道府県行政・1都8県
市区町村行政・18市区町村
教育委員会・11行政区
行政団体・10団体
海外行政・2都市(ソウル市・台北市)

【学校法人・学術団体】
国立大学18校
公立大学4校
私立大学19校
専門学校・高等学校他4校
学術団体3団体
海外学校法人7ヶ国7校(クルージナポカ工科大学・カナダ公立大学 マギル大学・マサチューセッツ工科大学・中国公立大学 浙江師範大学・オーストラリア公立大学 シドニー大学・國立臺灣大學・カリフォルニア大学バークレー校電気工学コンピューターサイエンス学科)

【メディア関連】
出版社4社
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ケーブルTV局・69局
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新聞社・5社
TV番組制作会社・4社
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SNS運営会社・1社
テーマパーク運営会社・1社
海外メディア・5社(香港有線電視有限公司・Hotwire、Inc.・インターネットアーカイブ・チャーター コミュニケーションズ・ゾン オプチムス)

上記アクセス元の他、上場企業や一般企業、通信事業企業など多くのアクセスをして頂きました。解析についてはIPアドレスにて行っていますので固定IPを所有せず、固定IPを提供するプロバイダーが情報公開していない場合、解析は不可能な状況です。現状、プロバイダー経由のアクセスが最も多く解析されいますが、独自サーバーからでは無く多数の個人の方々がプロバイダーの動的IPよりアクセスしていると分析すれば、大変多くの個人の方々よりアクセスを頂いていると判断しています。

サイト開設当初、江戸城築城石採石石丁場の紹介という極めてコアなコンテンツに多くのアクセスは期待していませんでした。紹介する写真は、どれも穴の空いた石やまるで石の傷の様な刻印の写真ばかり。興味を持つ人もいないだろうと思っていましたがコンテンツをアップする度にアクセスが上昇、開設後四年六ヶ月を経過して200万アクセスを越えるとは思いませんでした。

日本の歴史上、最大の城郭である江戸城。
江戸城を取り囲む城壁に使用する石材の調達地、江戸城築城石採石石丁場は貴重且つ重要な文化財ではないでしょうか。
また慶長九年、公儀普請として命を出した徳川家康にまつわる江戸城築城の歴史は1600年の関ヶ原の役の勝利にまで遡り、関ヶ原以前より家康や豊臣秀吉に関わった大名家の人間関係まで、石丁場に残された築城石残石は語ってくれるのです。

石丁場調査に入ると築城石残石達はまだまだ様々なことを語ってくれます。その語りかけを後世に残すべく、今後もサイトの充実を図っていきます。

伊豆國稲取・向山石丁場。 行方不明になっていた刻印石大岩、再発見!

 平成八年、東伊豆町教育委員会より発行された「東伊豆町の築城石」に記載されていた向山石丁場に存在していた大型刻印石が長年、行方不明となっていました。近年、町内の貴重な石丁場が宿泊施設によって破壊されたり、海岸線に点在していた築城石(角石)がダイバー進入路造成や防波堤造成のため破壊され、コンクリートに混ぜられたりと築城石災難が発生していたため、行方不明の大型刻印石も既に存在していないのではないかと危惧していました。

伊豆國稲取・向山石丁場内。国道135号線から志津摩海岸に続く畦道土手下の巨石。

 先日、石丁場跡を残す国道135号線から稲取・志津摩海岸に続く畦道を調査したところ、一昨年前まで鬱蒼とツタの絡まる土手脇の視界が開けていたのです。開けた視界の土手下に巨大な大岩が視界に飛び込んできました。
  畦道から見下ろした石面に明確な刻印を確認することは出来ませんでした。周辺に矢割石の存在を確認していましたので石丁場があったことは確かです。
 石材を切り出した石工が巨大な岩体を見逃すわけがありません。「何か刻まれている筈」という核心の基、畦道を駆け下りニューサマーオレンジが実る木々を掻き分けて巨石に近づいたのです。

巨石海側石面に刻まれた「△」と「+」の組み合わせ刻印。

 巨大な岩体は最高部で約4m、横幅6~7mの大岩です。近づく石面を見て思わず「オッ~!」と雄叫びを上げました。「△」に「+」の組み合わせ刻印が刻まれているではありませんか。ということは平成八年発行の資料に記載されていた大岩に間違いありません。資料記載の大岩なら反対面には二つの刻印が刻まれているはずです。
  刻印の存在を確かめるため、背後に回り込んで再び雄叫び!
 石面左側に刻まれていたのは松平土左守・山内忠義の刻印と思われる「#型紋」(土佐藩第二代藩主・山内忠義のみ土左藩…人偏無とされています)。石面右側には有馬玄蕃頭豊氏の代表紋「釘抜紋」だったのです。
「△」と「+」の刻印は加賀藩・前田家の刻印であると推測できます。

松平土左守・山内忠義の家臣団と思われる「井形紋」。
有馬玄蕃頭豊氏(ありまげんばのかみとようじ)の代表紋「釘抜紋」。

 元和年間、松平土左守・山内忠義から加賀藩・前田家に稲取の石丁場譲り渡しがあったことが古文書で確認されています。巨石の刻印は石丁場譲り渡しの証拠といえるでしょう。その後、寛永時代に入り有馬玄蕃頭豊氏の担当丁場となったようです。同丁場内には備前平戸藩第三代藩主の松浦隆信も担当丁場を持っていました。
 松浦隆信は慶長一九年、徳川家康により駿府城に呼び出され、江戸城改修の城普請(天下普請)への参加を要請されています。隣接する本林石丁場内三ヶ所から松浦隆信の刻印が見つかっています。付近の矢割石に残された矢穴跡から慶長時代の作業と思われ、家康からの命を受けた直後、松浦家は稲取本林石丁場に担当丁場を持ったと思われます。この松浦隆信の代表紋「三輪紋(三つ星紋)」が刻まれた巨石が3つの刻印入る巨石近くに存在することが平成八年発行の資料に記載されていたのですが、所在が不明となっていました。
 記載内容の記憶を頼りに付近を調査、露草とツタに覆われた巨石を見つけ、覆っていた露草とツタを払いのけて現れたのは見事な「三輪紋」。三度目の雄叫びを上げたのです。

備前平戸藩第三代藩主・松浦隆信の代表紋「三輪紋(三つ星紋)」。

行方不明になっていた刻印石大岩、再発見の瞬間でした。

何故、此所に!?、?、?。 あるはずのない場所で見つかった江戸城築城石切出残石。 埋蔵文化財を破壊、放置した行政の怠慢を問う。

 2018年、晩秋のことでした。
 伊豆稲取に来ていた知人にジオサイトを見せようと静岡県立稲取高校より北西方向、約1kmに位置する噴火口跡(一万数千年前に噴火)のスコリア火口壁と火山弾のある場所を案内したときのことです。
 秋の深まりを全く感じることが出来ない陽気に、例年では下草が枯れ、火口壁への侵入が容易になるのですが、この年は下草が繁茂、火口壁への侵入を断念しました。火口壁への入り口付近は整地されているため、クルマを容易に回すことが可能です。ジオサイトを見せることが叶わず、無念に感じながら帰路に着こうとクルマを回したその時、ススキの茂みの片隅に置かれた石の上辺に見覚えのある形状が視界に入りました。

「・・んっ?、エッ・・、何で・・?」

 横に乗っている知人は、何があったのかと怪訝そうな顔で私の顔を覗き込んでいます。「チョット待ってて・・。」と知人を置き去りにして視界に飛び込んできた石に駆け寄りました。
 ススキの茂みの背後に隠れていた大量の巨石が現れ、思わず絶句そして驚愕。

 今まで、数千の江戸城築城石の切出残石を見て、脳裏に刻まれた築城石形状の記憶領域が確立されている自身の能力に自ら驚かされました。クルマを回す際、見覚えのある形状は矢割跡であることを確認。ススキの茂みの背後に隠されていた巨石は、見事な江戸城築城石切出残石だったのです。
 知人にジオサイトを見せることは叶いませんでしたが、「思わぬ場所」で四百有余年の歴史の痕跡を見せることが出来たのです。

 築城石残石の巨石を見つけた場所は「思わぬ場所」なのです。
 地質的にスコリア火山の噴火口内と確認されている地勢で、火口からの噴出物は主に赤色スコリア。溶岩流が確認されていないエリアなので、築城石となる玄武岩は噴出していない筈です。
 私の頭の中は多数の「?」で満たされました。
 知人を宿舎まで送り届け「?」で満たされた頭をフル回転させ、東伊豆町文化審議会の会長、黒川さんにさっそくTEL。黒川さんは東伊豆町の築城石研究では知る人ぞ知る方なのです。

 黒川さんとは現場で待ち合わせ、到着を待つ間、改めて切出石材を調査。矢割跡の大きさから徳川家康の手伝普請(城普請、公儀普請)より始まった築城石採石開始直後の慶長時代から徳川家光の普請、寛永時代の採石跡まで時代は様々。約二十の巨石に矢割跡が確認出来たのです。刻印は確認出来なかったため、放置された築城石残石を採石した大名家を確定することは不可能でした。

 現場に到着した黒川さんから開口一番、「これは以前、築城石公園の計画があったとき、大川地区から持ってきた石だ!こんなところに隠してあるとは酷いなぁ・・。ここは役場が管理する土地だから隠しやすかったんだろう。」築城石公園は、現在の東伊豆町商工会横の公園が予定されていたらしいのですが計画は頓挫。現地には大川地区から運び込んだ刻印が刻まれた築城石(刻まれている分銅紋から堀尾吉晴担当丁場から運び出された石材)でモニュメントが設置されています。
 私が師と仰ぐ岡田善十郎さん(2018年末、ご逝去されました。残念です。)はモニュメントや町内に点在する石丁場から運び出した貴重な築城石に関して「なぜ、貴重な文化財を石丁場から運び出したりするんだ。そんなことは決してあってはならない。」と行政の歴史・文化に対する意識の低さを嘆いておられました。

 あるはずのない場所に放置された江戸城築城石切出残石。周囲の樹木の成長具合から放置後、約20年近く経過していると思われます。東伊豆町総務課及び教育委員会には放置石材について情報提供しました。
 原状復帰として元の位置に戻すことは、運び出し現場が確定できないので不可能でしょう。貴重な文化財を運び出し、不要だからと人の目に触れない様、ススキの茂みの背後に隠した行政の責任の取り方を問いたいと思います。
 せめて、至近距離にある噴火口跡の火口壁と火山弾と併せて、本来あるべきはずのない場所に放置した江戸城築城石切出石材ですが、慶長時代から寛永時代までの採石矢穴跡が見学できる場所として看板を作成、観光客の皆様に見ていただくというプランぐらいの立案は起てるべきでしょう。

静岡県東伊豆町稲取の食文化、「黄飯(きめし)」のルーツを辿る。

 静岡県東伊豆町稲取には「黄飯(きめし)」と呼ばれる食文化が伝承しています。「黄飯(きめし)」はクチナシの実で黄色く染められたごはんで子供たちの健康を願う雛まつりやお祝い事の振る舞いとして食されてきました。

黄飯。臼杵では「おうはん」、東伊豆町稲取では「きめし」
名古屋では「きいはん」と呼ばれています

 クチナシの実で黄色く染められたご飯は大分県臼杵地方にも存在、「黄飯(おうはん)」と呼ばれているのです。東伊豆町の「きめし」と大分県臼杵の「おうはん」に意外な接点を見つけました。

 臼杵は戦国時代のキリシタン武将として有名な大友宗麟(おおともそうりん)、大友氏21代当主の支配下にあった土地です。臼杵城の前身と云われる丹生島城を築城した大友宗麟は、キリシタンとして海外貿易による経済力に優れ、欧州の食文化にも興味を持っていたことでしょう。そのような環境下、バテレンとしてスペインから入国した宣教師によってパエリアが持ち込まれたと思われます。パエリアはサフランによって色付けされますが、サフランが手に入らなかった臼杵では代用としてクチナシを使用したのでしょう。

大友宗麟。

 クチナシにはクロセチンという成分が含まれ疲れ目の回復や睡眠の質を改善することが確認されているほか、栄養価が高く鎮痛・鎮静作用、解熱、消炎作用、止血作用の効果があります。現代風に云えば「サプリメントご飯」と言えるでしょう。この様な効果を知っていたかどうかは判りませんが大友宗麟が配下の家臣たちに振る舞っていたことと思われます。家臣の一人として名を連ねていたのが後の立花飛騨守宗茂であったのです。

大友宗麟の家臣であった立花宗茂。
クチナシの実。

 臼杵城の前身、丹生島城  (にゅうじまじょう)  は天正14年、島津軍の侵攻に遭います。落城寸前まで追い込まれた大友宗麟は城に籠城しますがポルトガル伝来の大砲を使って落城を免れ、その後、援軍を依頼していた 豊臣軍の到着で秀吉の九州平定となったのです。落城寸前の丹生島城場内にて栄養豊富な「黄飯(おうはん)」が戦士を奮い立たせていたのかも知れません。

現在の臼杵城。

 豊臣秀吉の死後、五大老の一人・徳川家康と五奉行の一人・石田三成との確執が激化。慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦を迎え、関ヶ原に勝利した家康の時代となっていったのです。豊臣時代、大友宗麟の嫡男・義統の卑怯な振る舞いに激怒した秀吉によって、大友氏は臼杵を含む豊後一国を改易され、同地は関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った稲葉家によって臼杵藩が築かれました。

 徳川家康は慶長8年、征夷大将軍として江戸に入り、江戸幕府を創設。翌年、手伝普請(城普請、天下普請)として全国13城の改修を命じます。この普請で国家を挙げての事業となったのが江戸の町の造営と江戸城の修築でした。江戸城修築にあたり神奈川県西部地区から伊豆東海岸は築上石採石地として、多くの西国大名が石丁場を形成、その一人として伊豆地区に担当石丁場を持っていたのが立花飛騨守宗茂であったのです。東伊豆地区では伊豆國大川に石丁場を持ち、大川から切り出した石材を運ぶ積載船は、伊豆國稲取に停泊させていたのです。つまり、大友宗麟の家臣であった立花宗茂配下の石工達と操船人夫は稲取の地に存在したことが伺えます。彼らが疲れ知らずの屈強な体を保っていた食材として「おうはん」の存在を知った稲取の人々が「きめし」として後世まで食文化を残したことが東伊豆町稲取の食文化「黄飯(きめし)」のルーツかもしれません。

稲葉典通像(大分県臼杵市・月桂寺所蔵)。

 手伝普請、13城修築の対象となった名古屋城の修築事業(20大名家による修築)には伊豆地区に石丁場を持っていた臼杵藩第2代藩主、稲葉典通が携わっています。名古屋市を中心とした地域にも「黄飯(きいはん)」として黒豆を乗せ、端午の節句に振る舞われる食文化が存在しています。名古屋と東伊豆町稲取に伝承する「黄飯」は、大友宗麟が「サプリメントご飯」として落城寸前の丹生島城で振る舞った栄養満点の「クチナシご飯」がルーツなのかもしれません。

※以上内容は筆者による仮説です。史実は確認されていません。

伊豆國大川に残る築城石「ぼなき石」に刻まれた石鑿跡に、時代の因果を感じ取った…。

 静岡県東伊豆町大川地区、地元では旧道と呼ばれる道沿いに「ぼなき石」の呼称を持つ江戸城築城石切出石材が存在しています。呼称の由来は、あまりにも大きな築城石のため、運ぶ人々が重くて思わずボヤいたとか、置き去りにされた築上石が江戸に運ばれないことを嘆いて、毎夜泣いていたことから「夜泣石」が訛って「ぼなき石」になったといわれています。
 東伊豆町発行の資料によると横幅2m47㎝、奥行1m20㎝、高さ94㎝。城壁角に使用される大型角石なのです。
 この「ぼなき石」、実は横倒しになっています。南側小口には「羽柴左エ門太夫」の刻文と「雁鐘紋」の刻印が刻まれています。今まで何度も目にしてきた「ぼなき石」、小口に刻まれた「羽柴左エ門大夫」「雁鐘紋」の他に文字が刻まれているようなのですが、風化と石鑿による削り跡で判読不明でした。

「ぼなき石」南側小口石面。

横倒しになっている「ぼなき石」を正位置に戻してみた。

 2枚目の写真は、横倒しになった「ぼなき石」を正位置に修正した写真です。一行目の刻まれていると思われる文字は風化が激しく読み取ることができません。
二行目の微かに残す石鑿の痕跡は「羽※左エ門大夫」と読み取ることができます。「羽柴左衛門大夫」とは豊臣秀吉の叔母を母の持ち、賤ケ岳の戦いにおいて七本槍の一人として活躍、安芸・備後四九万八千石の大名、福島正則その人なのです。

 しっかりと刻まれた「雁鐘紋(二つ雁)」の大型刻印は、有力大名切出し石材であることを意味しています。刻印の左上、石鑿で削り取られたような痕跡が残っています。それぞれの刻み跡を写真加工してみました。

 ぼなき石に刻まれた二行の文字をトレースしました。一行目はやはり判読困難です。判読困難な文字列らしき石鑿跡に「十九」の鑿跡があるように見えます。「十九」の文字は江戸城の修築において重要な数字です。
 慶長十九年は徳川幕府二代目将軍「徳川秀忠」による手伝普請が発令された年。しかし同年、慶長十九年十月二十五日、越後高田・ 会津 ・ 銚子 ・ 江戸 ・ 八王子 ・ 小田原 ・ 伊豆 ・ 伊那 ・ 駿府 ・ 三河田原 ・ 桑名 ・ 伊勢 ・ 津 ・ 京都 ・ 奈良 ・ 大坂 ・ 紀伊田辺 ・ 伊予松山 など広範囲に及ぶ大地震の記録が残っていますが、激しい揺れが国内全域に渡っていたため、震源がどこなのか判っていません。あまりにも被害が広範囲であるため東海沖、東南海沖、日本海、三陸沖、北海道南西沖を震央とする地震が同時多発的に発生したと思われます。また同年、大坂冬の陣が勃発。地震の影響と大名達の参戦で江戸城の修築は中断されてしまったのです。
 「ぼなき石」に微かに残る石鑿跡、「十九」の文字は徳川秀忠による普請が発令された慶長十九年の切り出しを意味しているのではないでしょうか・・?しかし様々な影響で江戸に運ばれることはなく、取り置き石(幕命の際、すぐに運び出しが出来るように準備された築城石)として大川山中に残されたのかもしれません。
 二行目はトレースではっきり読み取れる文字が浮かび上がりました。「羽※左エ門大夫」、福島正則の呼称です。二文字目は判読できませんが他の文字はしっかり確認ができます。「左」の文字は「た」に見えますが「左」の崩し字であることに間違いないでしょう。

 福島正則の代表紋「雁鐘紋(二つ雁)」はトレースするまでもありません。大型で刻みが深い見事な刻印です。
 下の写真は刻印左横(ぼなき石を正位置に戻したときの位置)の石鑿跡です。石材成型のための石鑿跡か何か文字が刻まれていたのか判読できないのです。石材成型のための石鑿跡とするには鑿跡の範囲が小さすぎます。推測ですが、何か文字が刻まれていたのではないでしょうか・・?

 石面のコントラストを上げトレースしてみました。
 トレースしても判読困難です。
 判読をあきらめかける中、よーく目を凝らすと「明正※※」と見えてきます。「明正・・?」江戸城築上石採石の年代に符合する元号に同様の文字は記憶にありません。「もしかして・・、あきまさ?」。ぼなき石を切り出した石工の名前でしょうか?
 今まで多くの石材を見てきました。石工の刻印らしき鑿跡は見たことがありますが石工の名前が刻まれた築城石石材は見たことはありません。しかもぼなき石には強大な力を持つ大名「羽柴左エ門大夫」の刻文が刻まれています。その石材に石工が自分の名前を刻むはずがないのです。
 「明正・・」と読める文字列に何か意味があるかもしれないと調査してみました。インターネット検索で出てきた名称に「明正天皇」の文字を見つけたのです。

 明正天皇(めいしょうてんのう)・・1624年1月9日(元和9年11月19日) ~1696年12月4日(元禄9年11月10日)。第109代天皇です。下の絵では第百八代とありますが109代天皇のようです。
 実は明正天皇、859年ぶりの女性天皇で僅か7歳で即位しています。在位は1629年12月22日(寛永6年11月8日)~1643年11月14日(寛永20年10月3日)。在位期間は徳川家光による江戸城修築普請発令期間と合致しています。しかも母方祖父は二代目将軍・徳川秀忠。つまり徳川家康は叔父にあたります。母は太政大臣征夷大将軍・徳川秀忠の娘・東福門院源和子。秀忠とは深い関わりがあり、即位に関しても幕府と朝廷の複雑な関係があったと記されています。

明正天皇。859年ぶりの女性天皇。即位はわずか7歳。

 しかし、福島正則の切出し石材に天皇の名前を刻むことはあるのでしょうか・・?
 外様大名の銘と一緒に天皇の銘を刻む事など有り得ないのです。では、なぜ・・?

猛将といわれていた福島正則。

 福島正則は元和五年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが徳川秀忠発布の武家諸法度違反に問われ、安芸・備後49万8,000石を没収。信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封の命令を受けています。
 実は福島正則、徳川家康からは熱い信用を受けていましたが、徳川秀忠からは快く思われていなかったのです。1600年、関ヶ原の戦いにおいて徳川秀忠は初陣を飾るつもりでいました。徳川家康の会津・上杉攻めの際、石田三成の旗揚げを知った家康は軍議を開きます(小山評定)。軍議後、秀忠は中山道を経由して関が原に向かいますが途中、信州上田城で真田昌幸と対峙。3万8,000人の大軍を率いながら、わずか2,000人の真田軍に苦戦。関が原本戦に間に合わず、家康の怒りを買ってしまいました。しかし、榊原康政の進言により家康との面会が許されたのですが、この一件が将軍の後継争いに影響を及ぼしてしまったのです。秀忠が失態を犯した関が原本戦で先鋒隊、一番槍を任されていたのが福嶋正則でした。
 戦後、福島正則は家康より論功行賞を受け、安芸広島と備後鞆49万8,000石を得たのです。福島正則が先鋒隊、一番槍とされていますが実際は、直面した宇喜多秀家の軍勢を恐れ、開戦の火ぶたが切れず、後方に陣取っていた藤堂高虎の隊が待ち兼ねて発砲したという説も残っています。
 正則は大坂の陣で豊臣秀頼から加勢を求められていますが拒絶しています。しかし、一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わり、弟の福島高晴は豊臣家に内通していました。嫡男の福島忠勝は幕府軍に加わりましたが、福島正則の一族周囲の動向に秀忠は快く思っていなかったことでしょう。
 この様なこともあり、広島城修復の願いが修繕二ヶ月前に幕府に出されていましたが、幕府は許可を出しませんでした。無許可で広島城を修復したことと先年、一国一城令に反し城を新築したことが謀反の動き有りと幕府に思わせてしまったのです。

 明正天皇が即位したときに福島正則は改易された後でした。伊豆國大川に派遣されていた福島正則配下の家臣と石工達がどのタイミングで主君の改易減封を知ったのか定かではありません。

 近年発見された大川区有文書に「先年、福島左衛門大夫切出し石材を持ってくるように・・」という内容で幕府から届いた文書に記載がありました。先年とは慶長期から元和期を指します。つまり発見された古文書は寛永期に書かれ、家光の普請が発令された寛永6年か寛永12~13年のものと思われます。福島正則改易時に採石していた石工が寛永期に再び採石するため、伊豆國大川を訪れていても年数の差異に違和感はありません。

 以下内容はあくまでも推察です・・。
 福島正則を主君としていた家臣並びに石工が他家の家臣、石工として再び大川の石丁場から採石を命じられた際、元主君の改易を嘆き悲しみ、改易を命じた徳川秀忠とゆかりがある刻(とき)の天皇「明正天皇」の文字を取り置き石となっていた「ぼなき石」に刻まれていた元主君の銘の下に記したのかもしれません。
 石材積載前の石検めにおいて、改易大名の銘と天皇の銘が刻まれていることを見つけた石奉行は、江戸への「ぼなき石」運搬を許可しなかったのでしょう。
 既に完成し見事な築城石となった「ぼなき石」。あまりにも重すぎて運ばれなかったとか運搬中、修羅から落下(石を運ぶための木枠から落下させると落城につながるとして江戸まで運ばれることはなかった)させるというトラブルなどで運ばれなかったのではなく、時代の因果が刻まれた築城石を将軍居城の江戸城城壁に使用することは許されることではなかったのでしょう・・。

つるし雛伝承廻廊 「西伝承廻廊」「北伝承廻廊」が見えてきた。

江戸城築城石について調べていると伊豆の石材切り出しに付随して、江戸時代の様々なことが推測できる事案に出合う様になりました。
その一つ、静岡県東伊豆町稲取が発祥とされている「つるし雛」。(現在、稲取では「雛のつるし飾り」と告知されていますが当ブログでは古来からの呼称「つるし雛」と記載します。)
福岡県柳川市の「さげもん」、山形県酒田市の「傘福」、静岡県東伊豆町稲取の「つるし雛」は日本三大つるし飾りとして知られています。日本三大つるし雛の地が江戸城築城石採石の歴史と密接に繋がっていたのです。

さげもん(写真参照:柳川市 http://www.city.yanagawa.fukuoka.jp)

傘福(写真参照:山形県 https://www.pref.yamagata.jp/)

東伊豆町稲取のつるし雛。

徳川家康の天下普請に始まった江戸城大改修。慶長期から寛永期に至るまで徳川三代の城普請は断続的に発令されていました。神奈川県西部から伊豆東海岸は、江戸城築城石採石地として主に西国大名によって多くの石丁場が設けられたのです。慶長、元和期では天領地であった地元村民を採石に従事させることは、幕府からの厳しいお達しで禁じられていましたが寛永十三年、三代将軍・徳川家光の普請発令による江戸城外堀工事が始まると尾張大納言、紀州大納言、水戸中納言の徳川御三家に至るまで築城石採石普請が発令され、地元村民も適切な報酬を支払うことで築城石採石に関わる作業に従事させることが可能となったのです。

伊豆國稲取村は築城石採石期、天然の良港として築城石石載船の係留地となっていました。伊豆東海岸では石丁場至近の港として川奈、稲取、下田が主な港であったことが細川家古文書によって確認されています。稲取村も大規模な石丁場が設けられ寛永十三年の普請では有馬左衛門佐直純、山崎甲斐守家治、稲葉淡路守紀通、九鬼大和守久隆ほか有力大名が石丁場を担当していました。
隣村の堀川(現北川)村、大川村には紀伊大納言頼宣、立花飛騨守宗茂、戸川土佐守正安、平岡石見守重勝、桑山左衛門佐一玄ほかが採石にあたり稲取村に船を掛け、船を回して江戸まで築城石を運んでいたのです。これら大名の中で、多くの武将から尊敬の念を抱かれていた立花飛騨守宗茂は、柳河(現柳川)藩初代藩主として知られていますが関ヶ原の戦いでは西軍として参戦。敗戦により領地を没収され改易となり、浪人の身分にまでなってしまいましたが後に再び柳河藩主となったのです。関ヶ原の戦いで西軍に就き、改易された後、再び同じ領地の藩主として返り咲いた唯一の大名なのです。
2018年2月、東伊豆町大川にて発見された刻印により立花飛騨守宗茂担当石丁場の存在が決定的となりました。「○に左(崩し字)」の刻印は「立左(りゅうさ)」の 呼称を持っていた立花飛騨守宗茂、その人なのです。

立花飛騨守宗茂(写真参照:Wikipedia)。

築城石残石の刻まれた立花飛騨守宗茂の刻印。

時代背景から推察すると寛永十三年以降、伊豆國稲取村には各地から多くの石工が集まり、石材調達に従事した報酬かつ天領地であったことから、かなり裕福な土地柄であったと思われます。
雛飾りは平安時代の「ひいな遊び」が起源(諸説あります)とされています。寛永期では「寛永雛」と云われ、現在の雅な段飾りとは異なり男雛と女雛の二体だけが飾られる簡素な形態でした。寛永時代、優雅に繁栄した稲取村民は簡素であった寛永雛の両脇につるし雛を飾り、繁栄の象徴としたのかもしれません(現在の伝承内容とは異なります)。大川村で採石作業に当たっていた立花飛騨守宗茂の担当丁場の石工たちが石載船を稲取村から回す際、このつるし飾りを目にして江戸城築城石採石終了後、自國の柳河藩に持ち帰り「さげもん」として伝承されたのかもしれません。「つるし雛伝承西廻廊」を思わせます。

では、「つるし雛伝承北廻廊」の推察です。
寛永十三年、三代将軍・徳川家光は江戸城外堀普請のほか日光東照宮大造営の事業にも着手しています。元和二年に崩御した徳川家康の遺言により亡骸は久能山東照宮に埋葬され増上寺にて葬儀を行いました。翌年、東照大権現として神格化された御霊は日光東照宮に祀られたのです。幕府は家康の一周忌に合わせて日光に東照宮を建造していますが家光によって寛永十三年に大造営を行い現在同様の規模になったと云われています。

日光東照宮 陽明門(写真参照:Wikipedia)

あまり知られていませんが日光東照宮造営時や修築時に伊豆の石材が使われていたのです。築城石の様な大型石材を日光まで運ぶことは恐らく不可能であったと思われますが、石段利用などの石材は河川を遡ることで日光まで運んだようです。石段状の石材は稲取村の南側隣村、尾張大納言義直の担当丁場、耳高村(現河津町見高)田尻川北側の磯丁場からも切り出され、現在でも石段状石材の残石が大量に残されています。
また寛永時代以降、元禄年間、宝永年間には大地震等の天災により江戸城石垣、日光東照宮の修築が度々行われてきました。
日光東照宮の修築に関する資料を読み解く中、宝永年間の作事奉行として活躍した鈴木長頼の逸話に遭遇したのです。鈴木長頼は日光東照宮修築の際、伊豆から切り出した石材を運搬中、運搬船の不都合で日光まで運ぶこと出来なくなったため、現在の千葉県市川市に現存する弘法寺(ぐほうじ)の石段に幕府の許可を取らず石材を利用してしまったのです。この事実が幕府の知れるところとなり、長頼はその責任を取り石段の途中で切腹、切腹した場所の位置する石は彼の無念の血しぶきと涙で濡れ、現在でも乾くことなく「なみだ石」として現存しているのです。

なみだ石(写真参照:Wikipedia)

宝永年間、日光東照宮修理の割り当てと出費がかさみ赤字藩へと転落したのが現在の酒田市を含む庄内藩だったのです。
伊豆の石材切り出しと日光東照宮の修築、日光東照宮修築担当藩であった庄内藩の酒田へ続くつるし雛伝承廻廊が見えたのです。
(上記は史実を踏まえた筆者の推測です。)

静岡県松崎町に現存する築三百年以上の木造建築「旧依田邸」。米蔵の柱に残された傷に歴史の謎は隠されていたのか?

先日(2018年5月19日)、静岡県松崎町の旧依田邸(旧大沢温泉ホテル)を訊ねてみました。
建造されたのは江戸時代の元禄年間(1688~1704)、築三百年以上が経過、堂々とした外観と風格ある館内は、歴史の重厚感を充分に感じさせてくれました。

平成22年(2010)、三百年以上前に建てられた母屋、約二百年前に客間として建てられた離れ、幕末に建てられた蔵三棟(道具蔵、米蔵、味噌蔵)が静岡県指定有形文化財に指定されています。

依田邸

伊豆地区建造物では2番目に古いとされる旧依田邸。築三百年を超える。

館内を見学する中、米蔵の柱の傷が視界に入りました。
館内ガイドをして頂いた松本さんの話では、柱の傷は建造当初からあったのではないかということです。
推測ですが、もし元禄年間の材木を流用して米蔵が建造されていたなら、約三百年以上前の材木が使用されていたことになります。母屋の大黒柱を見ると充分考えられることではないかと思った次第です。そう思えたのも柱の傷に見覚えがあったからなのです。

松崎町大沢、旧依田邸米蔵の柱に残る傷。

伊東市内、宇佐美北部石丁場群の桜ヶ洞(さくらがぼら)石丁場、鎌平石丁場、熱海市内、中張窪・瘤木石丁場より酷似する刻印が見出されています。

宇佐美北部石丁場群・桜ヶ洞(さくらがぼら)石丁場の切出し石材に刻まれている刻印。(写真:伊豆石丁場遺跡確認調査書2010/伊東市教育委員会発行)

刻印は「久」の略字とされています。
宇佐美石丁場を担当した大名家は田中筑後守、松平隠岐守、松平越中守、有馬左衛門佐、稲葉淡路守、九鬼大和守そして山崎甲斐守。熱海市中張窪・瘤木石丁場の担当大名家の中にも山崎甲斐守が存在しています。
松崎の依田家は織田信長の甲州征伐により、武田家が滅びた「天目山の戦」から逃れた依田家の一部が移り住んだとされています。依田家は甲斐武田家とは主従の関係にあり甲州とは深い繋がりがありました。
刻印が山崎甲斐守の刻印であるとは断定できませんが旧依田邸の米蔵に残された傷跡とは歴史的な繋がりがあるのでしょうか?

また、江戸城は寛永十三年、徳川家光の外堀造営を含めた普請以降、明暦三年(1657)・元禄十六年(1703)・安政二年(1855)の大地震により崩落した石垣の修築事業が行われています。
「細川家文書」によると明暦三年の翌年、万治元年(1658)、石屋久兵衛により「伊豆御影石(伊豆南部地区の凝灰岩)」を含めた石材が石材各産地より深川に集められています。石屋久兵衛配下の石工が松崎町の室岩洞付近の凝灰岩を見逃すとは思いません。
旧依田邸各所に見ることが出来る「∧に久」の紋は、石垣構築技術を提供した石屋久兵衛由来の紋かもしれません。石材切り出しに汗を流した石工達が大沢の地に湧出する温泉で汗を流し、主人・久兵衛の「久」の文字を柱に刻んだのかもしれません。

※上記は筆者の推測です。確定している史実ではありませんのでご了承ください。

2017年10月、二週続けて襲来した台風が残した東伊豆町稲取、磯脇石丁場に姿を現した刻印石。

2017年10月、日本列島を二週続けて台風が襲来しました。東伊豆町稲取の磯脇石丁場内に広がる磯丁場は台風による大波で地形が変わる程、大きな影響を受けていたのです。
遊歩道の防波堤を越えた大波は、防波堤内を海水で満たし、満たした海水に大波が襲いかかり遊歩道直上の民家石垣を波で洗ったのです。
地形の変化が気になっていましたが、磯丁場への探索機会がなく、状況を把握していませんでしたので二年ぶりに磯を歩いてみました。
東伊豆町稲取田町地区の堤防から磯釣りで有名な黒根岬に続く遊歩道の終端。台風の大波に洗われた民家の石垣と隣接する土手に驚愕、興奮、大絶叫の江戸城築城石が姿を現していたのです。

▲民家の石垣に組み込まれた矢割石。松平土佐守の刻印が二つ刻まれている。

▲「○に二」「柏一葉」の組み合わせ刻印近景。

民家石垣に組み込まれた矢割石に「○に二」「柏一葉」の刻印が刻まれているではありませんか。使用大名は松平土佐守。新発見の刻印です。隣接する土手には角石まで確認出来たのです。

▲土手から姿を現した角石。

▲角石の上に根を下ろした松の木。

海岸線に目を向けると大型角石。おそらく積船時に落下させてしまい江戸まで運ばれることがなかった石材でしょう。石材を移動時に落下させると落城に繋がるとして、江戸まで運ばれることがなかったのです。

▲積船時、落下させてしまった波打ち際の角石。

今回の発見は、磯脇石丁場で確認されていた「越前」の刻字と刻印、多数の矢穴が開けられた大岩と崖上に鎮座する「進上 松平土佐守」の銘文が入る角石の存在から松平土佐守こと山内忠義の大規模石丁場の存在を裏付ける証となるでしょう。

詳細はhttp://www.chikujohseki.com/isowaki.html

東伊豆町稲取、町内を流れる大川流域に江戸城築城石採石の大規模な石丁場の痕跡を見た!新たな刻印も発見!

静岡県東伊豆町稲取、湿原が広がる細野高原を源流域に持つ「大川」は、山中から急斜面を下り、伊豆急行線・伊豆稲取駅の下を流れ東伊豆町庁舎近くの稲取港に流れ込んでいます。
伊豆稲取駅から大川上流方向を見ると稲取特産の柑橘類が栽培される大規模なみかん畑を見ることが出来ます。みかん畑は南斜面に切り開かれ、大規模な石垣を築いて降り注ぐ太陽光を効率よく利用するための工夫がされています。石垣に利用されている石材に江戸城築城石、大石丁場が存在した痕跡を見ることが出来るのです。

大型矢割跡を残す矢割石。採石は間違いなく慶長時代。

比較的矢穴幅が小さい矢割石。作業は寛永時代以降。

同じ石垣に大型矢穴跡と小型矢穴跡、ドリルで開けられた跡が混在。江戸初期から近年までの時代を物語ります。

写真のように江戸城築城石採石の際、石材を切り出すため、矢割りされた石材の残石が石垣に組み込まれています。
慶長九年、徳川家康の城普請から始まった江戸城大改修事業は寛永十三年、徳川家光の普請後、寛永十六年に完了したといわれています。この石垣には慶長時代に採石した痕跡から寛永時代の採石、近年ドリルによって石材を加工した痕跡まで積み上がっているのです。この石垣周辺には、巨大な岩体が現在でも多数点在しています。その中の一つ、以前から気になっていた巨石がありました。
大川流域という地勢から鬱蒼とした竹林と高湿度な環境下、藪に入り込む度胸がなく、気になる巨石を眺めては溜息をついていましたが、例年にない低温が続いたおかげで巨石へのアクセスが容易になっていたのです。

いよいよ巨石に接近!
目に飛び込んできたのは、今まで確認されていなかった刻印、驚愕大興奮で一気に血圧急上昇となりました。

刻印が刻まれた巨石。刻印石の奥、石垣の手前はコンクリートで舗装された林道。

高さ約4m近い巨石に刻まれた刻印。「九」と「田」の組み合わせに見えますが・・。

初見したときは「大」と「田」に見えました。
「大」と「田」の刻印は場所が異なりますが近くの石丁場跡で確認されている刻印です。しかし、よく見ると「九」と「田」のようです。「田」の刻印は近くの愛宕山石丁場内で複数確認されています。「九」の刻印は沼津市戸田地区の石丁場、伊東市御石ヶ沢の石丁場で確認され、九鬼大和守久隆の刻印として確認されています。戸田石丁場と御石ヶ沢石丁場で確認される「九」の刻印は非常に類似していますが、今回見つかった「九」の刻印は両石丁場の刻印とは異なっているのです。
細川家文書の「伊豆石場之覚」によると寛永十二年前後、九鬼大和守久隆が稲取に担当石丁場を保有していた記載があります。付近のみかん畑から見つかっている「卍」の刻印が九鬼大和守久隆の刻印ではないかといわれていましたが今回、「九」の刻印が発見されたことで同大名家による採石場所が特定できたと思われます。
戸田石丁場と御石ヶ沢石丁場付近、細川古文書にて稲取同様、寛永十二年前後に九鬼大和守採石の記録があります。同じ大名家の別班がそれぞれの石丁場に入ったため、刻印の形状に相違があったのかもしれません。

今回の刻印発見場所付近は、おそらく数十年前まで大量の築城石残石が転がっていたことでしょう。現在では柑橘類栽培の石垣に姿を変えていますが、巨大な自然転石が点在する場所も残っています。未踏査箇所があるため、今後の調査により大発見があるかもしれません。

東伊豆町大川で新たな刻印石発見!発見場所は大規模太陽光発電建設地直下。

東伊豆町大川地区には江戸城築城石採石の大規模な石丁場が存在しています。今まで現認されていた石丁場以外の未踏査エリアから新たな刻印石が発見されました。
発見場所は、大川に存在していた国労教育センター跡地直下です。JR線とは直接縁の無い東伊豆町大川に、なぜ国労の施設があったのでしょうか?現在は大規模太陽光発電の建設工事が始まり、大型車両が現場に出入りしている状況となっているのです。
大丁場がある谷戸山山麓の沢を隔てた対岸が工事エリアであるため、石丁場の存在は予測できていましたが、平成八年・東伊豆町教育委員会発行「東伊豆町の築城石」では未踏査となっていました。
そんな状況下、刻印石発見の一報が飛び込んできたのです。早速、現場確認に・・。

繁茂する笹の中から突然姿を現した巨大な刻印石。

「○にた」刻印近景。

大規模太陽光発電工事現場直下、繁茂する笹藪の中から突然姿を現した巨石の上面に見事な刻印が刻まれていました。
刻印は「○にた」。
熱海、朝日山石丁場で多数確認されている刻印に近似していますが、筆者自身、東伊豆町大川地区では初見の刻印でした。今まで確認されている古文書により「○にた」の刻印は黒田長政の担当石丁場とされていますが、黒田家が東伊豆エリアで採石を行った形跡が無いのです。四百有余年の歴史を紐解く新たな発見に繋がるかもしれません。

しかし、新発見刻印石直上では太陽光発電の工事が進行中。付近の未踏査エリアを早急に調査しなければ、貴重な石丁場の破壊は免れないでしょう。
東伊豆町教育委員会には既に情報提供されていますが現場確認すら実施されず、太陽光発電の工事が始まっている状況も把握していないというお粗末な対応となっているのです。

大規模な石丁場の存在を予感する刻印石。

堆積物に埋もれた刻印石。

刻印は非常に鮮明で大川地区、他のエリアで見ることが出来る刻印に比べ保存状態では最も良い状態であると思われます。
限りあるエネルギー資源から、エコエネルギーに移行することは大切なことだと思います。しかし、いかなる理由があっても貴重な歴史文化遺産を破壊するようなことがあってはなりません。

御石ヶ沢石丁場で見つけた矢穴石に残る謎の石鑿跡。 解明を試みる。

伊豆東海岸を貫く国道135号線、伊東市と熱海市の境界付近に広がる御石ヶ沢石丁場群に潜入したところ、沢本流の一角で矢穴石を見つけたのです。実測しませんでしたが矢穴幅は100mm未満で築城石採石時期は寛永時代ではないかと思われます。

御石ヶ沢石丁場で見つけた矢穴石。

矢穴幅の大きさを確認しようと手をかざしたところ、石面の苔に隠れた石鑿跡を目にしました。
「何か書いてある~!」
慌てて軍手をはめた掌で苔を払いのけてみました。

苔を払いのけて現れた石鑿跡。

明らかに石鑿の線条痕です。
線条痕は文字を刻んでいるようですが、判読不明です。
仕事の関係でPhotoShopの扱いに慣れていますので、自宅にて石鑿で刻まれた線条痕を明確にしようと、あれこれ試行錯誤してみました。

画像加工で石鑿による線条痕を目立たせてみた。

画像に様々なフィルターを組み合わせて、石面に刻まれた線条痕を目立たせ、トレースを試みました。

画像を様々な角度で回転させ、文字として認識できるか試してみましたが、現在の天地が最も文字らしく認識できたのです。しかし、トレースしてもハッキリ判読できません。
「六※ん」・・。三文字の様に見えます。
漢数字の「六」、二文字目は解りません。三文字目はひらがなの「ん」。

以下、筆者の推測になります。
「六※ん」、曲解かもしれませんが「六ばん」ではないかと推測してみました。
矢穴幅から寛永時代と推察できる作業年代と「六ばん」の文字との共通点・・、思い当たる節があるのです。

時は寛永十三年。
江戸城大修築、最後の大事業と言われる外堀工事が、刻の将軍・徳川家光によって普請が下されたのです。全国六十二家の大名家や徳川家を一番組から六番組に分けて分担作業をさせたのです。
六番組は、
鍋島信濃守勝茂 三十五万七千石
生駒讃岐守高俊 十七万三千石
伊藤遠江守秀宗 十万石
織田出雲守高長 二万石
織田辰之助信勝 三万四千石
秋月長門守種春 二万七千石
島津左馬頭忠興 三万石
遠藤但馬守慶利 二万四千石
一柳監物直盛 二万八千石
京極丹後守高広 十二万三千石
京極修理大夫高 三万五千石
青木甲斐守重兼 一万石
織田大和守尚長 一万石
小出大隈守三尹 一万石
吉田兵部少輔重恒 五万五千石
久留島丹波守通春 一万四千石
以上、16家。備前佐賀の鍋島勝茂をはじめ殆どが伊豆東海岸の石丁場を担当しているではありませんか。

御石ヶ沢で見つけた石鑿線条痕が刻まれた矢穴石は「六番組」の作業場所であることを物語っているのではないでしょうか?

(寛永以前、元和六年の城普請時にも「六番組」まで組織が組まれ、分担作業で江戸城修築事業を行いましたが、元和六年に組まれた「六番組」は東国大名中心で伊豆東海岸からの採石は実施されていないようです。)

御石ヶ沢石丁場の他写真は、
http://www.chikujohseki.com/chougai.html

伊豆大島、岡田・勝崎沖から発見された慶長小判の謎。

昭和32年2月、伊豆大島・岡田地区の勝﨑沖で漁をしていた漁師が海底約20mの水深から黄金に輝く慶長小判を引き上げたのです。その後、周辺海域から慶長小判103枚、一分金63枚を発見。伊豆大島の埋蔵金伝説として語られました。
写真は現在、東京国立博物館で展示されている伊豆大島沖から引き上げられた慶長小判、実物です。

伊豆大島・岡田地区勝﨑沖の海底から引き上げられた慶長小判。一分金も展示されています。

この慶長小判について、なぜ伊豆大島沖の海底に存在していたのか、現在でも謎のままとなっています。
伊豆大島は江戸時代より物流航路の拠点となっていました。多くの商船が岡田港に寄港していたと思われますが同時代、付近で沈没したとされる商船は3隻確認されています。
1663(寛文3)年2月に沈んだ津の功天丸、1705(宝永2)年の宇和島の藩船、第二伊予紋丸、1737(元文2)年、明神丸です。
また、伊豆東海岸より江戸城築城石を運んでいた石載船に慶長11年5月25日、大規模な海難事故が発生。当時の海難事故について古文書に記載があり、鍋島信濃守勝茂の石船120艘、加藤左馬守嘉明の所有船46隻、黒田筑前守長政の所有船30隻が伊豆沖で沈んでしまったのです。
当時、石工たちの給金はお米で支払われていましたが、お米の購入費用や石材切り出し道具の修理費用など多額の金銭が必要であったことでしょう。江戸城築城石石載船に多額の金銭が運ばれていたことも考えられます。
伊豆大島沖の慶長小判と一分金、沈没商船のものなのか江戸城築城石石載船のものなのか謎は深まるばかりなのです。
もし、慶長11年の海難事故に伴う金銭だとすれば、伊豆沖周辺には、とてつもない枚数の慶長小判他金銭が沈んでいることでしょう。 

伊豆大島をシルエットに昇る朝陽。

続報・・破壊され一部失われた江戸城築城石採石地/細久保石丁場

東伊豆町大川地区に広がる細久保石丁場です。宿泊施設による施設侵入のためのコンクリート道施設により、一部破壊されてしまった石丁場の続報です。

東伊豆町大川地区細久保石丁場。四百有余年を経た角石切出し現場。

過日、東伊豆町長を前に文化財を管理する教育委員会に「五月に破壊行為の報告後、なぜ四ヶ月以上も現場確認すらしないのか?」と一喝。今後の適切な対応について申し入れを行いました。

数日後、同町文化審議会より教育委員会が現場確認を実施する旨の連絡を受け、同行したのです。待ち合わせ時間、午前十時に不安感を持ちました。先方は宿泊施設・・、チェックアウトの時間では無いだろうか・・。待ち合わせ場所にて教育委員会担当者に「先方に連絡を入れてあるか」と問い合わせたところ、「入れてありません」と不安的中の回答。破壊現場は公道や雑木林内から容易にアクセス可能な場所ですが私有地内です。現場確認を中止するという判断もありましたが、ようやく重い腰を上げた教育委員会・・、不安感を抱きながら現場に向かったのです。

角石後方に見えるパイプは宿泊施設敷設のパイプです。

破壊された石丁場の現場確認中、宿泊施設のスタッフに声を掛けられました。
「何ですか」との問いかけに「石丁場現場確認です・・。」スタッフは明らかに怪訝な顔。宿泊施設の経営前に同地区区長との取り決めによって、敷地内の江戸城築城石について動かさず、傷つけず、破壊せずであったことを伝えたところ、宿泊施設スタッフは「そんなことは知らない、築城石だか何だか知らないが関係ない、言いたいことがあるならオーナーに言ってくれ、お前ら不法侵入だ」と騒ぎ立てる始末。貴重な文化財を破壊したという意識など全くなしなのです。先方に連絡せずに現場確認を行った教育委員会にも非があることは確か、早々、現場を後にしたのです。

先日、東伊豆町文化審議会が開催された模様です。筆者は文化審議委員会員ではありませんので出席していませんが、宿泊施設の石丁場破壊行為が報告され、今後の対応について審議されたと聞きました。
宿泊施設に対しては今後、破壊行為を行わないよう申し入れると同時に埋蔵文化財包蔵地指定にむけて説明を実施。また、同町内に点在する私有地内石丁場についても埋蔵文化財包蔵地指定に向けて検討、もちろん町有地内石丁場についても埋蔵文化財包蔵地指定を行うことを確認したようです。
更に江戸城築城石石丁場を有する近隣自治体や関連団体、静岡県とも連携していくこととし、今後の石丁場保全についてシンポジウムの開催を計画する旨となりました。

ようやく、東伊豆町の江戸城築城石石丁場保全に向けてスタートラインに付くことができました。以後、動き出した行政が再び傍観者にならないよう、常に当事者として意識を持つよう情報提供していく所存です。

破壊され一部失われた江戸城築城石採石地・・東伊豆町大川地区・細久保石丁場。

掲載した写真は、2015年12月に撮影した静岡県東伊豆町大川地区の細久保石丁場群に存在する加賀藩前田家担当と思われる石丁場跡です。2017年8月現在、残念ですが、この風景を目にすることは出来ません。同敷地内に存在する宿泊施設の破壊行為により石丁場が失われてしまったのです。
二枚目写真の左側に宿泊施設に続く舗装路が確認出来ます。この舗装路の上方に新たなコンクリート道が造成されてしまったのです。新たなコンクリート道の造成箇所は、掲載した写真の江戸城築城石採石残石が残る貴重な石丁場内。破壊を確認した日、あまりのショックに写真を撮ることさえ出来ませんでした。

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該当場所で宿泊施設の営業が開始する直前、当時の東伊豆町大川地区区長と宿泊施設経営者との間で面談が行われ、宿泊施設経営者に対して区長より「町内に残る江戸城築城石の石丁場は大変貴重な文化財であるから、石丁場内にある残石は一切動かしたり、破壊しないこと」と強く申し渡し、宿泊施設経営者も了解の上、営業を開始した経緯があります。
しかし宿泊施設経営者は、この約束を遵守せずコンクリート道を造成し、貴重な石丁場を破壊したのです。

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2017年5月、宿泊施設による破壊行為確認直後、同町文化財を管理する東伊豆町教育委員会に報告を行いました。未だに現地確認さえ実施しないお粗末さに言葉も出ません。
また、小田原市、熱海市、伊東市の江戸城築城石採石石丁場が国の史跡に認定されましたが、当然それぞれの行政は点在する石丁場を埋蔵文化財包蔵地に認定しています。ところが東伊豆町の行政は石丁場を町の文化財にすら指定しないだけではなく、地権者とのトラブルを避け、埋蔵文化財包蔵地への指定も拒んでいるのです。

例えばですが・・、石丁場が存在する土地の地権者が石丁場の現状維持を確約していただけるなら固定資産税を免除するとか、保全に関わる助成金を拠出するといった方法は採れないものでしょうか?日本を代表する城郭「江戸城」と「江戸の町造成」に関わる貴重な石丁場です。国民の文化財といっても過言ではないでしょう。

貴重な石丁場の破壊行為を行う宿泊関連企業と保全のための方策を実施しない行政。怒りの矛先を何処に向ければイイのやら・・・。

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http://www.edojyo.tokyo

伊豆國大川村の風景に溶け込む和歌山城主、浅野紀伊守幸長の代表紋。

伊豆國大川村(現・静岡県賀茂郡東伊豆町大川)は江戸城築城石の採石地として、慶長時代から寛永時代に掛けて、多くの大名が築城石を切り出し、海上輸送で江戸まで運びました。
採石の名残が大川地区の谷戸山山中を中心に現存、おそらく同地区の殆どが江戸城築城石の採石地であったことでしょう。
石材の運び出しが行われた道を修羅道(石曳道)と呼びます。現在、修羅道があったと思われる痕跡はコンクリートで舗装され、民家が点在しています。良く有る海沿いの集落の何気ない風景の中に、浅野紀伊守幸長(現・和歌山県)の刻印が存在していました。

舗装路横の浅野紀伊守幸長の刻印石。

畑の石垣に刻まれた結三輪違紋。

修羅道と思われる舗装路、谷戸山に向かう延長線上には徳川家の刻印が残る石丁場があり、続いて松江城築城主、堀尾吉晴の担当丁場が現存。その西方向には羽柴左衛門太夫こと福島正則切り出しの築城石「ぼなき石」と担当丁場、そして浅野紀伊守幸長、担当丁場と連続的に繋がっています。
各大名の担当丁場の判断は、同種の刻印の確認から判断されています。近年、発見された古文書等でも他多くの大名が、江戸城築城石採石の地として伊豆國大川村に関わっていたことが実証されました。
残念なことに四百有余年の歴史を刻んだ江戸城築城石石丁場の一部がこの一年間で観光施設の身勝手な行動で破壊されてしまいました。破壊された石丁場は周囲に点在する刻印から加賀藩、前田家担当の丁場と思われます。
二度と元に戻らない石丁場。これ以上、貴重な石丁場が破壊されないよう、願うばかりです。

静岡県東伊豆町稲取の道祖神・八百比丘尼の謎に迫る!

 

静岡県東伊豆町稲取に現存する道祖神・八百比丘尼。

伊豆東海岸、稲取東町に「八百比丘尼(やおびくに)」と言われる道祖神が現存しています。道祖神は伊豆の凝灰岩で丸彫り坐像、神奈川県西部エリアから伊豆東海岸に分布する伊豆型道祖神の形態となっています。
「八百比丘尼」と言われる所以は、稲取の地を訪れた民俗学者・折口信夫先生により当時、現存していた状態から像が女神像で手に持つ素材を見て「八百比丘尼」であると判断したようです。
「八百比丘尼」とは日本各地に語られている伝説ですが日本海側、若狭湾地域で語られる伝説で知られています。
若狭国の庄屋の娘が浜で拾った人魚の肉を振る舞われた際、気味悪がって食さなかった村人達の中、娘だけが食べてしまい、その後800年生き続けたという伝説。現在の福井県小浜市には、八百比丘尼が入定したとされる洞窟が有り、入定地に残る石像と仏殿内の八百比丘尼像が稲取に残る道祖神に類似していたことも一つの根拠となり、道祖神は八百比丘尼とされたようです。
東伊豆町内には多くの道祖神が現存していますが、片瀬地区の道祖神も稲取の八百比丘尼像とやや似ているため、私は稲取東地区の道祖神は八百比丘尼ではないのでは、と疑問に思っていました。

福井県小浜市、八百比丘尼入場の地。

現在、様々な江戸城築城石に関わる研究をする中、熱海市伊豆山礼拝堂石丁場より「羽柴丹後守 けい長九年」の刻字が入った刻印石が見つかっていることを知ったのです。

伊豆山礼拝堂石丁場から発見された「羽柴丹後守 けい長九年」と刻まれた刻印石。

羽柴丹後守・・、丹後宮津藩の初代藩主・京極高知のことです。八百比丘尼伝説が残る若狭湾に面した一国を領主としていました。また高知県、山内神社資料館に残る文献資料に「伊豆國稲取」の文字と共に「京極丹後守」の文字が記されていたのです。八百比丘尼伝説が残る若狭と伊豆稲取が繋がりました。
さらに全国行脚をしたと言われる八百比丘尼は四国地方も訪ね、いくつかの八百比丘尼伝説を残しています。その中、高知県須崎市の神社には八百比丘尼塔が現存し、「高知県保護有形文化財」に指定されています。この神社の名称は「賀茂神社」・・。地元では「賀茂さま」と呼ばれ親しまれています。東伊豆町稲取を含む伊豆南部地方は「賀茂」と呼ばれていますが偶然の一致でしょうか?
更に香川県三豊市高瀬町の威徳院・勝造寺にも八百比丘尼塔が現存しています。建立は古く永和4年3月6日(1378年)とされています。年月を経て散失してしまった塔を再建したのは丹後宮津藩の系譜から繋がる丸亀藩・京極家なのです。再建は1678年、江戸城改修終了の1637年から約40年後、丸亀藩主・京極高豊による再建でした。

高知県須崎市「賀茂神社」に存在する八百比丘尼の塔。

香川県三豊市高瀬町の威徳院・勝造寺の八百比丘尼塔。

伊豆稲取に残る八百比丘尼像と江戸城改修の大号令を発した徳川家康の天下普請により、伊豆の地に石丁場を求めた丹後宮津藩の京極家。丹後宮津藩の系譜が繋がる丸亀藩京極家が再建した八百比丘尼塔。四国を行脚した八百比丘尼伝説が残る須崎の賀茂神社。そして、賀茂地区の稲取。歴史が織りなす物語が一つの線となって稲取の八百比丘尼像となっているようです。
伊豆稲取に採石地を求めた京極家の石工が、目の前の広がる相模湾を望み我が故郷、若狭の海を思い出し、若狭に残る八百比丘尼伝説を石像として帰郷の思いを形にしたのが伊豆稲取東町に残る道祖神「八百比丘尼」かもしれません。

熱海市 中張窪石丁場、謎の文字刻印石。

昨年、国の史跡に指定された熱海市、中張窪石丁場です。
文字刻印石が複数確認されている石丁場として、注目されています。
今回、メインルートと思われるコースで潜入してみました。

羽柴右近文字刻印石

「羽柴右近」文字刻印石

石丁場に入って先ず現れるのは、
「羽柴右近」と刻まれた文字刻印石です。
羽柴性で刻まれていますが森忠政の刻印石です。

「是ヨリにし 有馬玄番 石場 慶長十六年 七月廿一日」の文字刻印石。

「是ヨリにし 有馬玄番 石場 慶長十六年 七月廿一日」の文字刻印石。

東伊豆町稲取地区の本林石丁場からも、多くの石材を切り出している有馬玄番頭豊氏の文字刻印石。中張窪石丁場、見所の一つです。

「慶長十九年」の文字を刻む文字刻印石。

「慶長十九年」の文字を刻む文字刻印石。

深く刻まれた刻印と共に「慶長十九年」の文字が刻まれています。
「大坂冬の陣」開戦の年です。

判読不能文字刻印石。

判読不能文字刻印石。

「慶長十九年」と刻まれた文字刻印石が存在する石丁場から引き戻す途中、斜面の自然石が視線に入り、尾根まで斜面を登ると山頂に向かって左側斜面に多数の矢穴石、矢割石、刻印石が点在していました。最標高と思われる矢割石から尾根沿いに下っていく途中、熱海市教育委員会が発行した資料に存在が記載されていない文字刻印石に遭遇したのです。思わず山中一人「何か書いてある!」と雄叫びを上げてしまいました。帰宅後、複数の資料で調べましたが該当する文字刻印石が記載されている資料がありません。
謎の文字刻印石、新発見なのでしょうか?

詳細はhttp://www.chikujohseki.com/chougai.html

「T」の刻印に隠された謎を解き明かす。

先日、半年ぶりに東伊豆町大川地区、谷戸山石丁場に潜入しました。
いよいよ石丁場散策、シーズンインの頃合いとなりました。

一枚目の写真は切り出し途中の角石(江戸城築城石)です。
手前小口に「T」の刻印が刻まれています。
切り出し角石と刻印の存在は以前より確認していましたが、周辺から同様の刻印が見出されず謎の刻印となっていました。
谷戸山-T刻印自然石

2枚目の写真は、切り出し角石小口に刻まれている「T」の刻印近景です。
東伊豆町発行の資料には、大川地区に於いて「T」の刻印は確認されていないようです。
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三枚目の写真は、切り出し角石から約30m北方向に存在する自然石です。
高さ約3.5m、幅約2.5mの巨石ですが、
上部にハッキリとした「T」の刻印を発見しました。
キリシタン大名は、時としてアルファベットの刻印を使用することがあります。

「T」の刻印が意味する大名は・・・。

他地区で「○にT」の刻印を刻んだ大名が存在しています。
羽柴越中守こと豊前小倉藩初代藩主、細川忠興。
婚姻関係にあった明智光秀の娘、細川ガラシャは徳川時代の代表的キリシタンでもあります。
しかし、東伊豆町大川地区には細川忠興が担当した石丁場があったことは、現在まで確認されていません。
もし今回、複数確認された「T」の刻印が細川忠興由来の刻印であったとしたら・・・、新発見ということになります。
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まだまだ、謎の多い江戸城築城石石丁場。
この貴重な文化財を後世に残すべく、今後も石丁場調査を進めていきます。

河津町見高ベロバ海岸磯丁場。

約三ヶ月ぶりの書き込みです。
夏場の石丁場散策は暑さと害虫との戦い。
丁場潜入を控えていました。

10月に入り、河津町見高付近をクルマで走行中、
視界に飛び込んできたのが民家の門前に祀られた道祖神と矢割りされた石垣。
もしやと思い、周辺の海岸に視界を移すとそこには多数の矢割石と矢穴石。
石丁場探索シーズン突入間近の前哨戦となったのです。

詳細はhttp://www.chikujohseki.com/chougai.html

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河津町・見高の磯丁場

河津町見高地区磯丁場、岩盤の開けられた矢穴。

河津町見高地区磯丁場、岩盤の開けられた矢穴。

静岡県賀茂郡河津町見高地区の磯丁場です。
資料によると江戸城築城石採石時期、見高は「耳高」と呼ばれ、
尾張大納言義直が担当する石丁場が存在していました。

尾張徳川家は三代将軍・徳川家光の命により採石に参加。
現在の伊東市川奈~富戸付近、東伊豆町北川地区の大規模な石丁場を担当していたのです。

徳川家康による天下普請の命に始まる江戸城大改修。
徳川家光の時代は最も大規模な改修となり、
西国大名に限らず全国の諸大名から徳川御三家に至るまで
総動員して改修事業にあたったのです。

採石技術も改修に費やした約四十年の間に進歩し、
慶長~元和~寛永と時代が進むにつれ矢穴幅は小さくなっていきました。
見高地区の石に刻まれた矢穴は小さく、
尾張徳川家が担当した年代と照合出来る矢穴幅であることが確認できました。

詳細は、
http://www.chikujohseki.com/chougai.html

熊本城築城石と東伊豆エリアの築城石

先の熊本地震によって、加藤清正築城の熊本城が多大な損害を受けました。
崩れた城壁と貴重な建造物の報道を目にする度、心痛めております。
熊本並びに大分県他、近隣地域の皆様には早期の復旧、復興をお祈り致します。

築城の名手、加藤清正は、
徳川家康の天下普請により慶長九年、江戸城築城の採石を命じられ、
遠く伊豆の地に参じ、石材採石の事業を行いました。
伊豆と熊本、遠く離れていますが築城で繋がった縁を感じています。

先日、崩れた築城石の一部より観世音菩薩の線画が発見されました。
線画のクオリティの高さに驚愕するばかりです。

伊豆東海岸を貫く古道・東浦路。
東伊豆町内の北川~大川間の峠、割石にも線画が描かれています。
北川地区・マミ穴の石丁場と大川地区・細久保石丁場のほぼ中間地点。
矢割石に描かれた線画は観世音菩薩というより、まるで宇宙人・・。

熊本城築城石観音菩薩

熊本城築城石から発見された観音菩薩。

矢割石線画

東浦路、北川~大川観の峠にある矢割石に描かれた線画。

 

被災した熊本城の櫓を一列の石材が支えた映像を目にしました。
支えた石材は城壁の角に位置する角石(すみいし)。
城壁の要であることが実証された角石ですが、
江戸城の角石の多くが、神奈川県西部から伊豆東海岸より採石されているのです。

多くの角石が江戸に運ばれる中、東伊豆町内の角石のいくつかは町内に留まり、
一部は切り出した状態で山中にそのまま残っているのです。

熊本城角石

熊本城の櫓を支える角石。

畳石

東伊豆町稲取の民家玄関先に残された角石。小口には「御進上 松平土佐守 十内」の刻字。

東伊豆町内の角石一覧は、
http://chikujyoseki.higashiizu-ecotourism.com/chikujyoseki.html