静岡県東伊豆町大川地区、地元では旧道と呼ばれる道沿いに「ぼなき石」の呼称を持つ江戸城築城石切出石材が存在しています。呼称の由来は、あまりにも大きな築城石のため、運ぶ人々が重くて思わずボヤいたとか、置き去りにされた築上石が江戸に運ばれないことを嘆いて、毎夜泣いていたことから「夜泣石」が訛って「ぼなき石」になったといわれています。
東伊豆町発行の資料によると横幅2m47㎝、奥行1m20㎝、高さ94㎝。城壁角に使用される大型角石なのです。
この「ぼなき石」、実は横倒しになっています。南側小口には「羽柴左エ門太夫」の刻文と「雁鐘紋」の刻印が刻まれています。今まで何度も目にしてきた「ぼなき石」、小口に刻まれた「羽柴左エ門大夫」「雁鐘紋」の他に文字が刻まれているようなのですが、風化と石鑿による削り跡で判読不明でした。
2枚目の写真は、横倒しになった「ぼなき石」を正位置に修正した写真です。一行目の刻まれていると思われる文字は風化が激しく読み取ることができません。
二行目の微かに残す石鑿の痕跡は「羽※左エ門大夫」と読み取ることができます。「羽柴左衛門大夫」とは豊臣秀吉の叔母を母の持ち、賤ケ岳の戦いにおいて七本槍の一人として活躍、安芸・備後四九万八千石の大名、福島正則その人なのです。
しっかりと刻まれた「雁鐘紋(二つ雁)」の大型刻印は、有力大名切出し石材であることを意味しています。刻印の左上、石鑿で削り取られたような痕跡が残っています。それぞれの刻み跡を写真加工してみました。
ぼなき石に刻まれた二行の文字をトレースしました。一行目はやはり判読困難です。判読困難な文字列らしき石鑿跡に「十九」の鑿跡があるように見えます。「十九」の文字は江戸城の修築において重要な数字です。
慶長十九年は徳川幕府二代目将軍「徳川秀忠」による手伝普請が発令された年。しかし同年、慶長十九年十月二十五日、越後高田・ 会津 ・ 銚子 ・ 江戸 ・ 八王子 ・ 小田原 ・ 伊豆 ・ 伊那 ・ 駿府 ・ 三河田原 ・ 桑名 ・ 伊勢 ・ 津 ・ 京都 ・ 奈良 ・ 大坂 ・ 紀伊田辺 ・ 伊予松山 など広範囲に及ぶ大地震の記録が残っていますが、激しい揺れが国内全域に渡っていたため、震源がどこなのか判っていません。あまりにも被害が広範囲であるため東海沖、東南海沖、日本海、三陸沖、北海道南西沖を震央とする地震が同時多発的に発生したと思われます。また同年、大坂冬の陣が勃発。地震の影響と大名達の参戦で江戸城の修築は中断されてしまったのです。
「ぼなき石」に微かに残る石鑿跡、「十九」の文字は徳川秀忠による普請が発令された慶長十九年の切り出しを意味しているのではないでしょうか・・?しかし様々な影響で江戸に運ばれることはなく、取り置き石(幕命の際、すぐに運び出しが出来るように準備された築城石)として大川山中に残されたのかもしれません。
二行目はトレースではっきり読み取れる文字が浮かび上がりました。「羽※左エ門大夫」、福島正則の呼称です。二文字目は判読できませんが他の文字はしっかり確認ができます。「左」の文字は「た」に見えますが「左」の崩し字であることに間違いないでしょう。
福島正則の代表紋「雁鐘紋(二つ雁)」はトレースするまでもありません。大型で刻みが深い見事な刻印です。
下の写真は刻印左横(ぼなき石を正位置に戻したときの位置)の石鑿跡です。石材成型のための石鑿跡か何か文字が刻まれていたのか判読できないのです。石材成型のための石鑿跡とするには鑿跡の範囲が小さすぎます。推測ですが、何か文字が刻まれていたのではないでしょうか・・?
石面のコントラストを上げトレースしてみました。
トレースしても判読困難です。
判読をあきらめかける中、よーく目を凝らすと「明正※※」と見えてきます。「明正・・?」江戸城築上石採石の年代に符合する元号に同様の文字は記憶にありません。「もしかして・・、あきまさ?」。ぼなき石を切り出した石工の名前でしょうか?
今まで多くの石材を見てきました。石工の刻印らしき鑿跡は見たことがありますが石工の名前が刻まれた築城石石材は見たことはありません。しかもぼなき石には強大な力を持つ大名「羽柴左エ門大夫」の刻文が刻まれています。その石材に石工が自分の名前を刻むはずがないのです。
「明正・・」と読める文字列に何か意味があるかもしれないと調査してみました。インターネット検索で出てきた名称に「明正天皇」の文字を見つけたのです。
明正天皇(めいしょうてんのう)・・1624年1月9日(元和9年11月19日) ~1696年12月4日(元禄9年11月10日)。第109代天皇です。下の絵では第百八代とありますが109代天皇のようです。
実は明正天皇、859年ぶりの女性天皇で僅か7歳で即位しています。在位は1629年12月22日(寛永6年11月8日)~1643年11月14日(寛永20年10月3日)。在位期間は徳川家光による江戸城修築普請発令期間と合致しています。しかも母方祖父は二代目将軍・徳川秀忠。つまり徳川家康は叔父にあたります。母は太政大臣征夷大将軍・徳川秀忠の娘・東福門院源和子。秀忠とは深い関わりがあり、即位に関しても幕府と朝廷の複雑な関係があったと記されています。
しかし、福島正則の切出し石材に天皇の名前を刻むことはあるのでしょうか・・?
外様大名の銘と一緒に天皇の銘を刻む事など有り得ないのです。では、なぜ・・?
福島正則は元和五年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが徳川秀忠発布の武家諸法度違反に問われ、安芸・備後49万8,000石を没収。信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封の命令を受けています。
実は福島正則、徳川家康からは熱い信用を受けていましたが、徳川秀忠からは快く思われていなかったのです。1600年、関ヶ原の戦いにおいて徳川秀忠は初陣を飾るつもりでいました。徳川家康の会津・上杉攻めの際、石田三成の旗揚げを知った家康は軍議を開きます(小山評定)。軍議後、秀忠は中山道を経由して関が原に向かいますが途中、信州上田城で真田昌幸と対峙。3万8,000人の大軍を率いながら、わずか2,000人の真田軍に苦戦。関が原本戦に間に合わず、家康の怒りを買ってしまいました。しかし、榊原康政の進言により家康との面会が許されたのですが、この一件が将軍の後継争いに影響を及ぼしてしまったのです。秀忠が失態を犯した関が原本戦で先鋒隊、一番槍を任されていたのが福嶋正則でした。
戦後、福島正則は家康より論功行賞を受け、安芸広島と備後鞆49万8,000石を得たのです。福島正則が先鋒隊、一番槍とされていますが実際は、直面した宇喜多秀家の軍勢を恐れ、開戦の火ぶたが切れず、後方に陣取っていた藤堂高虎の隊が待ち兼ねて発砲したという説も残っています。
正則は大坂の陣で豊臣秀頼から加勢を求められていますが拒絶しています。しかし、一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わり、弟の福島高晴は豊臣家に内通していました。嫡男の福島忠勝は幕府軍に加わりましたが、福島正則の一族周囲の動向に秀忠は快く思っていなかったことでしょう。
この様なこともあり、広島城修復の願いが修繕二ヶ月前に幕府に出されていましたが、幕府は許可を出しませんでした。無許可で広島城を修復したことと先年、一国一城令に反し城を新築したことが謀反の動き有りと幕府に思わせてしまったのです。
明正天皇が即位したときに福島正則は改易された後でした。伊豆國大川に派遣されていた福島正則配下の家臣と石工達がどのタイミングで主君の改易減封を知ったのか定かではありません。
近年発見された大川区有文書に「先年、福島左衛門大夫切出し石材を持ってくるように・・」という内容で幕府から届いた文書に記載がありました。先年とは慶長期から元和期を指します。つまり発見された古文書は寛永期に書かれ、家光の普請が発令された寛永6年か寛永12~13年のものと思われます。福島正則改易時に採石していた石工が寛永期に再び採石するため、伊豆國大川を訪れていても年数の差異に違和感はありません。
以下内容はあくまでも推察です・・。
福島正則を主君としていた家臣並びに石工が他家の家臣、石工として再び大川の石丁場から採石を命じられた際、元主君の改易を嘆き悲しみ、改易を命じた徳川秀忠とゆかりがある刻(とき)の天皇「明正天皇」の文字を取り置き石となっていた「ぼなき石」に刻まれていた元主君の銘の下に記したのかもしれません。
石材積載前の石検めにおいて、改易大名の銘と天皇の銘が刻まれていることを見つけた石奉行は、江戸への「ぼなき石」運搬を許可しなかったのでしょう。
既に完成し見事な築城石となった「ぼなき石」。あまりにも重すぎて運ばれなかったとか運搬中、修羅から落下(石を運ぶための木枠から落下させると落城につながるとして江戸まで運ばれることはなかった)させるというトラブルなどで運ばれなかったのではなく、時代の因果が刻まれた築城石を将軍居城の江戸城城壁に使用することは許されることではなかったのでしょう・・。