平成八年、東伊豆町教育委員会より発行された「東伊豆町の築城石」に記載されていた向山石丁場に存在していた大型刻印石が長年、行方不明となっていました。近年、町内の貴重な石丁場が宿泊施設によって破壊されたり、海岸線に点在していた築城石(角石)がダイバー進入路造成や防波堤造成のため破壊され、コンクリートに混ぜられたりと築城石災難が発生していたため、行方不明の大型刻印石も既に存在していないのではないかと危惧していました。
先日、石丁場跡を残す国道135号線から稲取・志津摩海岸に続く畦道を調査したところ、一昨年前まで鬱蒼とツタの絡まる土手脇の視界が開けていたのです。開けた視界の土手下に巨大な大岩が視界に飛び込んできました。
畦道から見下ろした石面に明確な刻印を確認することは出来ませんでした。周辺に矢割石の存在を確認していましたので石丁場があったことは確かです。
石材を切り出した石工が巨大な岩体を見逃すわけがありません。「何か刻まれている筈」という核心の基、畦道を駆け下りニューサマーオレンジが実る木々を掻き分けて巨石に近づいたのです。
巨大な岩体は最高部で約4m、横幅6~7mの大岩です。近づく石面を見て思わず「オッ~!」と雄叫びを上げました。「△」に「+」の組み合わせ刻印が刻まれているではありませんか。ということは平成八年発行の資料に記載されていた大岩に間違いありません。資料記載の大岩なら反対面には二つの刻印が刻まれているはずです。
刻印の存在を確かめるため、背後に回り込んで再び雄叫び!
石面左側に刻まれていたのは松平土左守・山内忠義の刻印と思われる「#型紋」(土佐藩第二代藩主・山内忠義のみ土左藩…人偏無とされています)。石面右側には有馬玄蕃頭豊氏の代表紋「釘抜紋」だったのです。
「△」と「+」の刻印は加賀藩・前田家の刻印であると推測できます。
元和年間、松平土左守・山内忠義から加賀藩・前田家に稲取の石丁場譲り渡しがあったことが古文書で確認されています。巨石の刻印は石丁場譲り渡しの証拠といえるでしょう。その後、寛永時代に入り有馬玄蕃頭豊氏の担当丁場となったようです。同丁場内には備前平戸藩第三代藩主の松浦隆信も担当丁場を持っていました。
松浦隆信は慶長一九年、徳川家康により駿府城に呼び出され、江戸城改修の城普請(天下普請)への参加を要請されています。隣接する本林石丁場内三ヶ所から松浦隆信の刻印が見つかっています。付近の矢割石に残された矢穴跡から慶長時代の作業と思われ、家康からの命を受けた直後、松浦家は稲取本林石丁場に担当丁場を持ったと思われます。この松浦隆信の代表紋「三輪紋(三つ星紋)」が刻まれた巨石が3つの刻印入る巨石近くに存在することが平成八年発行の資料に記載されていたのですが、所在が不明となっていました。
記載内容の記憶を頼りに付近を調査、露草とツタに覆われた巨石を見つけ、覆っていた露草とツタを払いのけて現れたのは見事な「三輪紋」。三度目の雄叫びを上げたのです。
行方不明になっていた刻印石大岩、再発見の瞬間でした。