静岡県東伊豆町稲取の食文化、「黄飯(きめし)」のルーツを辿る。

 静岡県東伊豆町稲取には「黄飯(きめし)」と呼ばれる食文化が伝承しています。「黄飯(きめし)」はクチナシの実で黄色く染められたごはんで子供たちの健康を願う雛まつりやお祝い事の振る舞いとして食されてきました。

黄飯。臼杵では「おうはん」、東伊豆町稲取では「きめし」
名古屋では「きいはん」と呼ばれています

 クチナシの実で黄色く染められたご飯は大分県臼杵地方にも存在、「黄飯(おうはん)」と呼ばれているのです。東伊豆町の「きめし」と大分県臼杵の「おうはん」に意外な接点を見つけました。

 臼杵は戦国時代のキリシタン武将として有名な大友宗麟(おおともそうりん)、大友氏21代当主の支配下にあった土地です。臼杵城の前身と云われる丹生島城を築城した大友宗麟は、キリシタンとして海外貿易による経済力に優れ、欧州の食文化にも興味を持っていたことでしょう。そのような環境下、バテレンとしてスペインから入国した宣教師によってパエリアが持ち込まれたと思われます。パエリアはサフランによって色付けされますが、サフランが手に入らなかった臼杵では代用としてクチナシを使用したのでしょう。

大友宗麟。

 クチナシにはクロセチンという成分が含まれ疲れ目の回復や睡眠の質を改善することが確認されているほか、栄養価が高く鎮痛・鎮静作用、解熱、消炎作用、止血作用の効果があります。現代風に云えば「サプリメントご飯」と言えるでしょう。この様な効果を知っていたかどうかは判りませんが大友宗麟が配下の家臣たちに振る舞っていたことと思われます。家臣の一人として名を連ねていたのが後の立花飛騨守宗茂であったのです。

大友宗麟の家臣であった立花宗茂。
クチナシの実。

 臼杵城の前身、丹生島城  (にゅうじまじょう)  は天正14年、島津軍の侵攻に遭います。落城寸前まで追い込まれた大友宗麟は城に籠城しますがポルトガル伝来の大砲を使って落城を免れ、その後、援軍を依頼していた 豊臣軍の到着で秀吉の九州平定となったのです。落城寸前の丹生島城場内にて栄養豊富な「黄飯(おうはん)」が戦士を奮い立たせていたのかも知れません。

現在の臼杵城。

 豊臣秀吉の死後、五大老の一人・徳川家康と五奉行の一人・石田三成との確執が激化。慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦を迎え、関ヶ原に勝利した家康の時代となっていったのです。豊臣時代、大友宗麟の嫡男・義統の卑怯な振る舞いに激怒した秀吉によって、大友氏は臼杵を含む豊後一国を改易され、同地は関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った稲葉家によって臼杵藩が築かれました。

 徳川家康は慶長8年、征夷大将軍として江戸に入り、江戸幕府を創設。翌年、手伝普請(城普請、天下普請)として全国13城の改修を命じます。この普請で国家を挙げての事業となったのが江戸の町の造営と江戸城の修築でした。江戸城修築にあたり神奈川県西部地区から伊豆東海岸は築上石採石地として、多くの西国大名が石丁場を形成、その一人として伊豆地区に担当石丁場を持っていたのが立花飛騨守宗茂であったのです。東伊豆地区では伊豆國大川に石丁場を持ち、大川から切り出した石材を運ぶ積載船は、伊豆國稲取に停泊させていたのです。つまり、大友宗麟の家臣であった立花宗茂配下の石工達と操船人夫は稲取の地に存在したことが伺えます。彼らが疲れ知らずの屈強な体を保っていた食材として「おうはん」の存在を知った稲取の人々が「きめし」として後世まで食文化を残したことが東伊豆町稲取の食文化「黄飯(きめし)」のルーツかもしれません。

稲葉典通像(大分県臼杵市・月桂寺所蔵)。

 手伝普請、13城修築の対象となった名古屋城の修築事業(20大名家による修築)には伊豆地区に石丁場を持っていた臼杵藩第2代藩主、稲葉典通が携わっています。名古屋市を中心とした地域にも「黄飯(きいはん)」として黒豆を乗せ、端午の節句に振る舞われる食文化が存在しています。名古屋と東伊豆町稲取に伝承する「黄飯」は、大友宗麟が「サプリメントご飯」として落城寸前の丹生島城で振る舞った栄養満点の「クチナシご飯」がルーツなのかもしれません。

※以上内容は筆者による仮説です。史実は確認されていません。

伊豆國大川に残る築城石「ぼなき石」に刻まれた石鑿跡に、時代の因果を感じ取った…。

 静岡県東伊豆町大川地区、地元では旧道と呼ばれる道沿いに「ぼなき石」の呼称を持つ江戸城築城石切出石材が存在しています。呼称の由来は、あまりにも大きな築城石のため、運ぶ人々が重くて思わずボヤいたとか、置き去りにされた築上石が江戸に運ばれないことを嘆いて、毎夜泣いていたことから「夜泣石」が訛って「ぼなき石」になったといわれています。
 東伊豆町発行の資料によると横幅2m47㎝、奥行1m20㎝、高さ94㎝。城壁角に使用される大型角石なのです。
 この「ぼなき石」、実は横倒しになっています。南側小口には「羽柴左エ門太夫」の刻文と「雁鐘紋」の刻印が刻まれています。今まで何度も目にしてきた「ぼなき石」、小口に刻まれた「羽柴左エ門大夫」「雁鐘紋」の他に文字が刻まれているようなのですが、風化と石鑿による削り跡で判読不明でした。

「ぼなき石」南側小口石面。

横倒しになっている「ぼなき石」を正位置に戻してみた。

 2枚目の写真は、横倒しになった「ぼなき石」を正位置に修正した写真です。一行目の刻まれていると思われる文字は風化が激しく読み取ることができません。
二行目の微かに残す石鑿の痕跡は「羽※左エ門大夫」と読み取ることができます。「羽柴左衛門大夫」とは豊臣秀吉の叔母を母の持ち、賤ケ岳の戦いにおいて七本槍の一人として活躍、安芸・備後四九万八千石の大名、福島正則その人なのです。

 しっかりと刻まれた「雁鐘紋(二つ雁)」の大型刻印は、有力大名切出し石材であることを意味しています。刻印の左上、石鑿で削り取られたような痕跡が残っています。それぞれの刻み跡を写真加工してみました。

 ぼなき石に刻まれた二行の文字をトレースしました。一行目はやはり判読困難です。判読困難な文字列らしき石鑿跡に「十九」の鑿跡があるように見えます。「十九」の文字は江戸城の修築において重要な数字です。
 慶長十九年は徳川幕府二代目将軍「徳川秀忠」による手伝普請が発令された年。しかし同年、慶長十九年十月二十五日、越後高田・ 会津 ・ 銚子 ・ 江戸 ・ 八王子 ・ 小田原 ・ 伊豆 ・ 伊那 ・ 駿府 ・ 三河田原 ・ 桑名 ・ 伊勢 ・ 津 ・ 京都 ・ 奈良 ・ 大坂 ・ 紀伊田辺 ・ 伊予松山 など広範囲に及ぶ大地震の記録が残っていますが、激しい揺れが国内全域に渡っていたため、震源がどこなのか判っていません。あまりにも被害が広範囲であるため東海沖、東南海沖、日本海、三陸沖、北海道南西沖を震央とする地震が同時多発的に発生したと思われます。また同年、大坂冬の陣が勃発。地震の影響と大名達の参戦で江戸城の修築は中断されてしまったのです。
 「ぼなき石」に微かに残る石鑿跡、「十九」の文字は徳川秀忠による普請が発令された慶長十九年の切り出しを意味しているのではないでしょうか・・?しかし様々な影響で江戸に運ばれることはなく、取り置き石(幕命の際、すぐに運び出しが出来るように準備された築城石)として大川山中に残されたのかもしれません。
 二行目はトレースではっきり読み取れる文字が浮かび上がりました。「羽※左エ門大夫」、福島正則の呼称です。二文字目は判読できませんが他の文字はしっかり確認ができます。「左」の文字は「た」に見えますが「左」の崩し字であることに間違いないでしょう。

 福島正則の代表紋「雁鐘紋(二つ雁)」はトレースするまでもありません。大型で刻みが深い見事な刻印です。
 下の写真は刻印左横(ぼなき石を正位置に戻したときの位置)の石鑿跡です。石材成型のための石鑿跡か何か文字が刻まれていたのか判読できないのです。石材成型のための石鑿跡とするには鑿跡の範囲が小さすぎます。推測ですが、何か文字が刻まれていたのではないでしょうか・・?

 石面のコントラストを上げトレースしてみました。
 トレースしても判読困難です。
 判読をあきらめかける中、よーく目を凝らすと「明正※※」と見えてきます。「明正・・?」江戸城築上石採石の年代に符合する元号に同様の文字は記憶にありません。「もしかして・・、あきまさ?」。ぼなき石を切り出した石工の名前でしょうか?
 今まで多くの石材を見てきました。石工の刻印らしき鑿跡は見たことがありますが石工の名前が刻まれた築城石石材は見たことはありません。しかもぼなき石には強大な力を持つ大名「羽柴左エ門大夫」の刻文が刻まれています。その石材に石工が自分の名前を刻むはずがないのです。
 「明正・・」と読める文字列に何か意味があるかもしれないと調査してみました。インターネット検索で出てきた名称に「明正天皇」の文字を見つけたのです。

 明正天皇(めいしょうてんのう)・・1624年1月9日(元和9年11月19日) ~1696年12月4日(元禄9年11月10日)。第109代天皇です。下の絵では第百八代とありますが109代天皇のようです。
 実は明正天皇、859年ぶりの女性天皇で僅か7歳で即位しています。在位は1629年12月22日(寛永6年11月8日)~1643年11月14日(寛永20年10月3日)。在位期間は徳川家光による江戸城修築普請発令期間と合致しています。しかも母方祖父は二代目将軍・徳川秀忠。つまり徳川家康は叔父にあたります。母は太政大臣征夷大将軍・徳川秀忠の娘・東福門院源和子。秀忠とは深い関わりがあり、即位に関しても幕府と朝廷の複雑な関係があったと記されています。

明正天皇。859年ぶりの女性天皇。即位はわずか7歳。

 しかし、福島正則の切出し石材に天皇の名前を刻むことはあるのでしょうか・・?
 外様大名の銘と一緒に天皇の銘を刻む事など有り得ないのです。では、なぜ・・?

猛将といわれていた福島正則。

 福島正則は元和五年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが徳川秀忠発布の武家諸法度違反に問われ、安芸・備後49万8,000石を没収。信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封の命令を受けています。
 実は福島正則、徳川家康からは熱い信用を受けていましたが、徳川秀忠からは快く思われていなかったのです。1600年、関ヶ原の戦いにおいて徳川秀忠は初陣を飾るつもりでいました。徳川家康の会津・上杉攻めの際、石田三成の旗揚げを知った家康は軍議を開きます(小山評定)。軍議後、秀忠は中山道を経由して関が原に向かいますが途中、信州上田城で真田昌幸と対峙。3万8,000人の大軍を率いながら、わずか2,000人の真田軍に苦戦。関が原本戦に間に合わず、家康の怒りを買ってしまいました。しかし、榊原康政の進言により家康との面会が許されたのですが、この一件が将軍の後継争いに影響を及ぼしてしまったのです。秀忠が失態を犯した関が原本戦で先鋒隊、一番槍を任されていたのが福嶋正則でした。
 戦後、福島正則は家康より論功行賞を受け、安芸広島と備後鞆49万8,000石を得たのです。福島正則が先鋒隊、一番槍とされていますが実際は、直面した宇喜多秀家の軍勢を恐れ、開戦の火ぶたが切れず、後方に陣取っていた藤堂高虎の隊が待ち兼ねて発砲したという説も残っています。
 正則は大坂の陣で豊臣秀頼から加勢を求められていますが拒絶しています。しかし、一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わり、弟の福島高晴は豊臣家に内通していました。嫡男の福島忠勝は幕府軍に加わりましたが、福島正則の一族周囲の動向に秀忠は快く思っていなかったことでしょう。
 この様なこともあり、広島城修復の願いが修繕二ヶ月前に幕府に出されていましたが、幕府は許可を出しませんでした。無許可で広島城を修復したことと先年、一国一城令に反し城を新築したことが謀反の動き有りと幕府に思わせてしまったのです。

 明正天皇が即位したときに福島正則は改易された後でした。伊豆國大川に派遣されていた福島正則配下の家臣と石工達がどのタイミングで主君の改易減封を知ったのか定かではありません。

 近年発見された大川区有文書に「先年、福島左衛門大夫切出し石材を持ってくるように・・」という内容で幕府から届いた文書に記載がありました。先年とは慶長期から元和期を指します。つまり発見された古文書は寛永期に書かれ、家光の普請が発令された寛永6年か寛永12~13年のものと思われます。福島正則改易時に採石していた石工が寛永期に再び採石するため、伊豆國大川を訪れていても年数の差異に違和感はありません。

 以下内容はあくまでも推察です・・。
 福島正則を主君としていた家臣並びに石工が他家の家臣、石工として再び大川の石丁場から採石を命じられた際、元主君の改易を嘆き悲しみ、改易を命じた徳川秀忠とゆかりがある刻(とき)の天皇「明正天皇」の文字を取り置き石となっていた「ぼなき石」に刻まれていた元主君の銘の下に記したのかもしれません。
 石材積載前の石検めにおいて、改易大名の銘と天皇の銘が刻まれていることを見つけた石奉行は、江戸への「ぼなき石」運搬を許可しなかったのでしょう。
 既に完成し見事な築城石となった「ぼなき石」。あまりにも重すぎて運ばれなかったとか運搬中、修羅から落下(石を運ぶための木枠から落下させると落城につながるとして江戸まで運ばれることはなかった)させるというトラブルなどで運ばれなかったのではなく、時代の因果が刻まれた築城石を将軍居城の江戸城城壁に使用することは許されることではなかったのでしょう・・。

つるし雛伝承廻廊 「西伝承廻廊」「北伝承廻廊」が見えてきた。

江戸城築城石について調べていると伊豆の石材切り出しに付随して、江戸時代の様々なことが推測できる事案に出合う様になりました。
その一つ、静岡県東伊豆町稲取が発祥とされている「つるし雛」。(現在、稲取では「雛のつるし飾り」と告知されていますが当ブログでは古来からの呼称「つるし雛」と記載します。)
福岡県柳川市の「さげもん」、山形県酒田市の「傘福」、静岡県東伊豆町稲取の「つるし雛」は日本三大つるし飾りとして知られています。日本三大つるし雛の地が江戸城築城石採石の歴史と密接に繋がっていたのです。

さげもん(写真参照:柳川市 http://www.city.yanagawa.fukuoka.jp)

傘福(写真参照:山形県 https://www.pref.yamagata.jp/)

東伊豆町稲取のつるし雛。

徳川家康の天下普請に始まった江戸城大改修。慶長期から寛永期に至るまで徳川三代の城普請は断続的に発令されていました。神奈川県西部から伊豆東海岸は、江戸城築城石採石地として主に西国大名によって多くの石丁場が設けられたのです。慶長、元和期では天領地であった地元村民を採石に従事させることは、幕府からの厳しいお達しで禁じられていましたが寛永十三年、三代将軍・徳川家光の普請発令による江戸城外堀工事が始まると尾張大納言、紀州大納言、水戸中納言の徳川御三家に至るまで築城石採石普請が発令され、地元村民も適切な報酬を支払うことで築城石採石に関わる作業に従事させることが可能となったのです。

伊豆國稲取村は築城石採石期、天然の良港として築城石石載船の係留地となっていました。伊豆東海岸では石丁場至近の港として川奈、稲取、下田が主な港であったことが細川家古文書によって確認されています。稲取村も大規模な石丁場が設けられ寛永十三年の普請では有馬左衛門佐直純、山崎甲斐守家治、稲葉淡路守紀通、九鬼大和守久隆ほか有力大名が石丁場を担当していました。
隣村の堀川(現北川)村、大川村には紀伊大納言頼宣、立花飛騨守宗茂、戸川土佐守正安、平岡石見守重勝、桑山左衛門佐一玄ほかが採石にあたり稲取村に船を掛け、船を回して江戸まで築城石を運んでいたのです。これら大名の中で、多くの武将から尊敬の念を抱かれていた立花飛騨守宗茂は、柳河(現柳川)藩初代藩主として知られていますが関ヶ原の戦いでは西軍として参戦。敗戦により領地を没収され改易となり、浪人の身分にまでなってしまいましたが後に再び柳河藩主となったのです。関ヶ原の戦いで西軍に就き、改易された後、再び同じ領地の藩主として返り咲いた唯一の大名なのです。
2018年2月、東伊豆町大川にて発見された刻印により立花飛騨守宗茂担当石丁場の存在が決定的となりました。「○に左(崩し字)」の刻印は「立左(りゅうさ)」の 呼称を持っていた立花飛騨守宗茂、その人なのです。

立花飛騨守宗茂(写真参照:Wikipedia)。

築城石残石の刻まれた立花飛騨守宗茂の刻印。

時代背景から推察すると寛永十三年以降、伊豆國稲取村には各地から多くの石工が集まり、石材調達に従事した報酬かつ天領地であったことから、かなり裕福な土地柄であったと思われます。
雛飾りは平安時代の「ひいな遊び」が起源(諸説あります)とされています。寛永期では「寛永雛」と云われ、現在の雅な段飾りとは異なり男雛と女雛の二体だけが飾られる簡素な形態でした。寛永時代、優雅に繁栄した稲取村民は簡素であった寛永雛の両脇につるし雛を飾り、繁栄の象徴としたのかもしれません(現在の伝承内容とは異なります)。大川村で採石作業に当たっていた立花飛騨守宗茂の担当丁場の石工たちが石載船を稲取村から回す際、このつるし飾りを目にして江戸城築城石採石終了後、自國の柳河藩に持ち帰り「さげもん」として伝承されたのかもしれません。「つるし雛伝承西廻廊」を思わせます。

では、「つるし雛伝承北廻廊」の推察です。
寛永十三年、三代将軍・徳川家光は江戸城外堀普請のほか日光東照宮大造営の事業にも着手しています。元和二年に崩御した徳川家康の遺言により亡骸は久能山東照宮に埋葬され増上寺にて葬儀を行いました。翌年、東照大権現として神格化された御霊は日光東照宮に祀られたのです。幕府は家康の一周忌に合わせて日光に東照宮を建造していますが家光によって寛永十三年に大造営を行い現在同様の規模になったと云われています。

日光東照宮 陽明門(写真参照:Wikipedia)

あまり知られていませんが日光東照宮造営時や修築時に伊豆の石材が使われていたのです。築城石の様な大型石材を日光まで運ぶことは恐らく不可能であったと思われますが、石段利用などの石材は河川を遡ることで日光まで運んだようです。石段状の石材は稲取村の南側隣村、尾張大納言義直の担当丁場、耳高村(現河津町見高)田尻川北側の磯丁場からも切り出され、現在でも石段状石材の残石が大量に残されています。
また寛永時代以降、元禄年間、宝永年間には大地震等の天災により江戸城石垣、日光東照宮の修築が度々行われてきました。
日光東照宮の修築に関する資料を読み解く中、宝永年間の作事奉行として活躍した鈴木長頼の逸話に遭遇したのです。鈴木長頼は日光東照宮修築の際、伊豆から切り出した石材を運搬中、運搬船の不都合で日光まで運ぶこと出来なくなったため、現在の千葉県市川市に現存する弘法寺(ぐほうじ)の石段に幕府の許可を取らず石材を利用してしまったのです。この事実が幕府の知れるところとなり、長頼はその責任を取り石段の途中で切腹、切腹した場所の位置する石は彼の無念の血しぶきと涙で濡れ、現在でも乾くことなく「なみだ石」として現存しているのです。

なみだ石(写真参照:Wikipedia)

宝永年間、日光東照宮修理の割り当てと出費がかさみ赤字藩へと転落したのが現在の酒田市を含む庄内藩だったのです。
伊豆の石材切り出しと日光東照宮の修築、日光東照宮修築担当藩であった庄内藩の酒田へ続くつるし雛伝承廻廊が見えたのです。
(上記は史実を踏まえた筆者の推測です。)

東伊豆町大川で新たな刻印石発見!発見場所は大規模太陽光発電建設地直下。

東伊豆町大川地区には江戸城築城石採石の大規模な石丁場が存在しています。今まで現認されていた石丁場以外の未踏査エリアから新たな刻印石が発見されました。
発見場所は、大川に存在していた国労教育センター跡地直下です。JR線とは直接縁の無い東伊豆町大川に、なぜ国労の施設があったのでしょうか?現在は大規模太陽光発電の建設工事が始まり、大型車両が現場に出入りしている状況となっているのです。
大丁場がある谷戸山山麓の沢を隔てた対岸が工事エリアであるため、石丁場の存在は予測できていましたが、平成八年・東伊豆町教育委員会発行「東伊豆町の築城石」では未踏査となっていました。
そんな状況下、刻印石発見の一報が飛び込んできたのです。早速、現場確認に・・。

繁茂する笹の中から突然姿を現した巨大な刻印石。

「○にた」刻印近景。

大規模太陽光発電工事現場直下、繁茂する笹藪の中から突然姿を現した巨石の上面に見事な刻印が刻まれていました。
刻印は「○にた」。
熱海、朝日山石丁場で多数確認されている刻印に近似していますが、筆者自身、東伊豆町大川地区では初見の刻印でした。今まで確認されている古文書により「○にた」の刻印は黒田長政の担当石丁場とされていますが、黒田家が東伊豆エリアで採石を行った形跡が無いのです。四百有余年の歴史を紐解く新たな発見に繋がるかもしれません。

しかし、新発見刻印石直上では太陽光発電の工事が進行中。付近の未踏査エリアを早急に調査しなければ、貴重な石丁場の破壊は免れないでしょう。
東伊豆町教育委員会には既に情報提供されていますが現場確認すら実施されず、太陽光発電の工事が始まっている状況も把握していないというお粗末な対応となっているのです。

大規模な石丁場の存在を予感する刻印石。

堆積物に埋もれた刻印石。

刻印は非常に鮮明で大川地区、他のエリアで見ることが出来る刻印に比べ保存状態では最も良い状態であると思われます。
限りあるエネルギー資源から、エコエネルギーに移行することは大切なことだと思います。しかし、いかなる理由があっても貴重な歴史文化遺産を破壊するようなことがあってはなりません。

伊豆國大川村の風景に溶け込む和歌山城主、浅野紀伊守幸長の代表紋。

伊豆國大川村(現・静岡県賀茂郡東伊豆町大川)は江戸城築城石の採石地として、慶長時代から寛永時代に掛けて、多くの大名が築城石を切り出し、海上輸送で江戸まで運びました。
採石の名残が大川地区の谷戸山山中を中心に現存、おそらく同地区の殆どが江戸城築城石の採石地であったことでしょう。
石材の運び出しが行われた道を修羅道(石曳道)と呼びます。現在、修羅道があったと思われる痕跡はコンクリートで舗装され、民家が点在しています。良く有る海沿いの集落の何気ない風景の中に、浅野紀伊守幸長(現・和歌山県)の刻印が存在していました。

舗装路横の浅野紀伊守幸長の刻印石。

畑の石垣に刻まれた結三輪違紋。

修羅道と思われる舗装路、谷戸山に向かう延長線上には徳川家の刻印が残る石丁場があり、続いて松江城築城主、堀尾吉晴の担当丁場が現存。その西方向には羽柴左衛門太夫こと福島正則切り出しの築城石「ぼなき石」と担当丁場、そして浅野紀伊守幸長、担当丁場と連続的に繋がっています。
各大名の担当丁場の判断は、同種の刻印の確認から判断されています。近年、発見された古文書等でも他多くの大名が、江戸城築城石採石の地として伊豆國大川村に関わっていたことが実証されました。
残念なことに四百有余年の歴史を刻んだ江戸城築城石石丁場の一部がこの一年間で観光施設の身勝手な行動で破壊されてしまいました。破壊された石丁場は周囲に点在する刻印から加賀藩、前田家担当の丁場と思われます。
二度と元に戻らない石丁場。これ以上、貴重な石丁場が破壊されないよう、願うばかりです。

「T」の刻印に隠された謎を解き明かす。

先日、半年ぶりに東伊豆町大川地区、谷戸山石丁場に潜入しました。
いよいよ石丁場散策、シーズンインの頃合いとなりました。

一枚目の写真は切り出し途中の角石(江戸城築城石)です。
手前小口に「T」の刻印が刻まれています。
切り出し角石と刻印の存在は以前より確認していましたが、周辺から同様の刻印が見出されず謎の刻印となっていました。
谷戸山-T刻印自然石

2枚目の写真は、切り出し角石小口に刻まれている「T」の刻印近景です。
東伊豆町発行の資料には、大川地区に於いて「T」の刻印は確認されていないようです。
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三枚目の写真は、切り出し角石から約30m北方向に存在する自然石です。
高さ約3.5m、幅約2.5mの巨石ですが、
上部にハッキリとした「T」の刻印を発見しました。
キリシタン大名は、時としてアルファベットの刻印を使用することがあります。

「T」の刻印が意味する大名は・・・。

他地区で「○にT」の刻印を刻んだ大名が存在しています。
羽柴越中守こと豊前小倉藩初代藩主、細川忠興。
婚姻関係にあった明智光秀の娘、細川ガラシャは徳川時代の代表的キリシタンでもあります。
しかし、東伊豆町大川地区には細川忠興が担当した石丁場があったことは、現在まで確認されていません。
もし今回、複数確認された「T」の刻印が細川忠興由来の刻印であったとしたら・・・、新発見ということになります。
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まだまだ、謎の多い江戸城築城石石丁場。
この貴重な文化財を後世に残すべく、今後も石丁場調査を進めていきます。

東伊豆町の築城石HP開設

東伊豆町の築城石HP

東伊豆ecoツーリズム協議会運営「東伊豆町の築城石」HP

東伊豆ecoツーリズム協議会が運営する「東伊豆町の築城石」HPがサイトアップされました。

http://chikujyoseki.higashiizu-ecotourism.com/

東伊豆町内各所に点在する角石が一覧で閲覧することが出来ます。
各石丁場、刻印石のPHOTOなど見所満載のHP、是非アクセスを!