新発見された江戸城石垣の謎を解く!

2021年4月14日(水)、メディア各社より皇室に受け継がれた美術品を所蔵する三の丸尚蔵館の建て替え工事現場にて、現存石垣としては最古とみられる江戸城石垣発見の報道がされました。

新発見された石垣。
写真:Yahooニュース時事通信社記事より

石垣は幅約16m、高さ4mの七段積み。現場で確認していませんので詳細は解りませんが、メディアにて紹介された写真を見ると石垣は「打込みハギ粗積」の方法で構成され、複数の刻印が確認できます。石質は凝灰岩と安山岩が混在しているように見えます。明言できるのは太田道灌時代の石垣ではない、ということです。国内最古の打ち込みハギ城郭は秀吉の北条攻めの際に築城された一夜城(石垣山城)の城壁の一部とされています。一夜城築城以前の城壁は近江穴太衆に代表される野面積みなのです。太田道灌築城時代では石材を矢割して組み込むことはなく、石垣を組んだとしても野面積みであるため、新たに発見された石垣は太田道灌築城とは異なります。

それでは、神奈川県西部地区から伊豆半島各所に現存する江戸城築城石採石丁場内に残る刻印石より新たに発見された江戸城の石垣について考察してみましょう。

報道写真、映像で確認出来た刻印は「○に中」「は」「三頭巴紋」「○に一」「#型紋」ほか不明紋が複数刻まれていたようです。「は」と不明紋の刻印に関しては今まで見識がありませんので、恐らく石垣を組んだ大名家の家臣または石工の刻印ではないかと思われます。

「○に一」の刻印は備中国庭瀬藩二代藩主・戸川土佐守正安の担当石丁場内にて確認されていますが、筆者は見識が無いため定かではありません。

「#型紋」は複数の大名家が使用する刻印ですが、石垣が造成された時代背景から松平土左守であった土佐藩二代藩主・山内忠義(松平土左守・・「土佐」が「土左」となっているのは山内忠義が朝廷より土佐守の官位を賜った際、朝廷の書記が「土左守」と記述したため、土佐藩第二代藩主・山内忠義のみ「松平土左守」と記述されているのです)の刻印ではないかと思われます。写真の「#型紋」は東伊豆町稲取の本林石丁場内に現存する刻印石です。
詳細はhttps://www.edojyo.tokyo/honbayashi.html

松平土左守の刻印とされる「#型紋」。

「#型紋」近景。

「三頭巴紋」は伊予松山藩主・蒲生忠知(慶長十七年、松平姓を与えられています)の刻印であると思われます。写真は伊東市御石ヶ沢石丁場内に現存する「三頭巴紋」の刻印石です。石丁場内には大量の「三頭巴紋」が刻まれた石材が点在、刻印は「三頭巴紋」と「輪違い紋」または「+(クルス)紋」とセットで刻まれています。
「輪違い紋」を代表紋としていたのは賤ヶ岳の七本槍として有名な伊予国大洲藩初代藩主・脇坂安治です。伊予国内の大名家二家を代表する刻印が刻まれた石材が存在するということは、大名家間で協業または石丁場の譲り渡しがあったのかもしれません。(通常、石丁場の担当は一大名家とされ、大名家間で譲り渡しが成立しないと他大名家の担当石丁場から採石することは不可と定められていました)
詳細はhttps://www.edojyo.tokyo/chougai/oishigasawa.html

「三頭巴紋」と「+(クルス)紋」

「三頭巴紋」と「輪違い紋」。

「○に中」の刻印は新たに発見された城壁の造成時代を探る最も重要な刻印になります。
「○に中」の刻印は「三頭巴紋」同様、伊東市御石ヶ沢石丁場内より多数発見されている刻印の一つです。
熱海市に残る「聞間文書」には御石ヶ沢石丁場と思われる付近に「御林の間」と呼ばれる細川家の石丁場があったと記載があり、刻印は「○に中」であることが記されています。「○に中」の刻印は、羽柴越中守である細川忠興の刻印であることを意味する刻印とされ、羽柴越中守の「中」を記したと考えられています。しかし、伊豆各地に大規模石丁場を所有していた細川家石丁場から見つかる刻印で「○に中」の刻印は御石ヶ沢石丁場内の一つの谷筋だけなのです。
詳細はhttps://www.edojyo.tokyo/chougai/oishigasawa.html

美しい矢穴跡を残す「○に中」の刻印石。

細川家が羽柴姓に関わる刻印を刻んだということは慶長十九年、大坂の陣以前の刻印でしょう。大坂の陣で豊臣家滅亡後、徳川家が羽柴姓を使用した刻字を許すとは考えにくいのです。そのため細川家石丁場で使用される刻印は慶長十九年以降、細川家の代表紋である「九曜紋」または九曜紋の略刻印「九」を使用しているようです。「九曜紋」「九」の刻印は御石ヶ沢石丁場内にて確認され、隣接するナコウ山石丁場山頂付近からは「羽柴越中守石場」の銘文が刻まれた巨石が存在しています。
参照 https://www.edojyo.tokyo/chougai/nakou.html

細川家の代表紋「九曜紋」。

「九曜紋」近景。

「九」の刻印が刻まれた築城石残石。

「九」の刻印近景。

「○に中」の刻印については大阪城普請の際、松平宮内少が使用したという文書が確認されています。松平宮内少は備前国岡山藩二代藩主・池田忠雄(いけだただかつ)と思われ「○に中」の刻印石が多数存在する谷筋至近距離に「松平宮内少 石場」の銘文刻字巨石が現存することから池田忠雄の刻印である可能性があります。
池田忠雄は元和六年から開始された大阪城改築工事に参加、担当場所には蛸石、肥後石、振袖石という大坂城内有数の大巨石を次々と城壁に組込みました。また、岡山城の城郭整備、城下町の拡張整備といった大事業を行っています。
しかし、池田忠雄の生誕は慶長七年ですので、江戸城修築の公儀普請が発令された慶長九年では未だ二歳。池田忠雄は七歳で元服していますので、慶長時代後期の公儀普請以降の参加となり、慶長十九年の秀忠による公儀普請に参加は可能ですが同年、大坂の陣が勃発、江戸城改修の普請が中断していますので、元和以降の参加となるでしょう。大阪城改修工事の時は十八歳となっていますので辻褄が合います。
御石ヶ沢石丁場内に多数存在する「○に中」の刻印石ですが、石材を伐るために開けられた矢穴幅は慶長時代から始まり江戸城改修が終了する寛永時代までを物語ります。(矢穴幅により石材採石の時代が判ります。公儀普請直後の慶長時代では、開けられた矢穴に木製の楔を差し込み、水を掛けて木材の膨張を利用して石を割りました。時代が進み、石材切出し技術が発達すると楔は鉄製に変わり、矢穴幅は小さくなります)
参照 https://www.edojyo.tokyo/wordguide.html

「松平宮内少 石場」の至近距離にある「○に中」の刻印石。

山内文書や細川文書による「伊豆・相模石場之覚」では細川忠興は同地区(伊東市宇佐美)への採石について寛永六年の記録が残っていますが慶長、元和時代の採石記録が記載されていません。松平宮内少または池田忠雄については採石記録が残っていないのです。しかし、「松平宮内少 石場」と刻まれた銘文石の事実は現場に残っているのです。
つまり古文書の記載漏れ、または記載間違いがあったと判断できます。他石丁場の記載についても記載間違いを見つけていますので、古文書の記載内容を全て信用することは出来ません。
「○に中」の刻印石は誰の手になるものなのか?
謎は深まるばかりです。

メディアに掲載された写真から判断すると新たに発見された石垣の矢穴幅は慶長時代ではないでしょうか。現地にて刻印の形状、大きさ、開けられた矢穴幅、石材の石質、石材の組まれ方を実際に見てみないと石垣が組まれた時代が判断できません。
複数の刻印石が同一面に組まれていることから、採石大名と石垣を組んだ大名家は異なるようです。

ブログのタイトルを
「新発見された江戸城石垣の謎を解く。」としましたが、
謎を解く「○に中」の刻印が細川忠興なのか池田忠雄なのか確定出来ませんでしたので、新発見の石垣造成時代を確定させるに至りませんでした。
残念!

伊豆國稲取・向山石丁場。 行方不明になっていた刻印石大岩、再発見!

 平成八年、東伊豆町教育委員会より発行された「東伊豆町の築城石」に記載されていた向山石丁場に存在していた大型刻印石が長年、行方不明となっていました。近年、町内の貴重な石丁場が宿泊施設によって破壊されたり、海岸線に点在していた築城石(角石)がダイバー進入路造成や防波堤造成のため破壊され、コンクリートに混ぜられたりと築城石災難が発生していたため、行方不明の大型刻印石も既に存在していないのではないかと危惧していました。

伊豆國稲取・向山石丁場内。国道135号線から志津摩海岸に続く畦道土手下の巨石。

 先日、石丁場跡を残す国道135号線から稲取・志津摩海岸に続く畦道を調査したところ、一昨年前まで鬱蒼とツタの絡まる土手脇の視界が開けていたのです。開けた視界の土手下に巨大な大岩が視界に飛び込んできました。
  畦道から見下ろした石面に明確な刻印を確認することは出来ませんでした。周辺に矢割石の存在を確認していましたので石丁場があったことは確かです。
 石材を切り出した石工が巨大な岩体を見逃すわけがありません。「何か刻まれている筈」という核心の基、畦道を駆け下りニューサマーオレンジが実る木々を掻き分けて巨石に近づいたのです。

巨石海側石面に刻まれた「△」と「+」の組み合わせ刻印。

 巨大な岩体は最高部で約4m、横幅6~7mの大岩です。近づく石面を見て思わず「オッ~!」と雄叫びを上げました。「△」に「+」の組み合わせ刻印が刻まれているではありませんか。ということは平成八年発行の資料に記載されていた大岩に間違いありません。資料記載の大岩なら反対面には二つの刻印が刻まれているはずです。
  刻印の存在を確かめるため、背後に回り込んで再び雄叫び!
 石面左側に刻まれていたのは松平土左守・山内忠義の刻印と思われる「#型紋」(土佐藩第二代藩主・山内忠義のみ土左藩…人偏無とされています)。石面右側には有馬玄蕃頭豊氏の代表紋「釘抜紋」だったのです。
「△」と「+」の刻印は加賀藩・前田家の刻印であると推測できます。

松平土左守・山内忠義の家臣団と思われる「井形紋」。
有馬玄蕃頭豊氏(ありまげんばのかみとようじ)の代表紋「釘抜紋」。

 元和年間、松平土左守・山内忠義から加賀藩・前田家に稲取の石丁場譲り渡しがあったことが古文書で確認されています。巨石の刻印は石丁場譲り渡しの証拠といえるでしょう。その後、寛永時代に入り有馬玄蕃頭豊氏の担当丁場となったようです。同丁場内には備前平戸藩第三代藩主の松浦隆信も担当丁場を持っていました。
 松浦隆信は慶長一九年、徳川家康により駿府城に呼び出され、江戸城改修の城普請(天下普請)への参加を要請されています。隣接する本林石丁場内三ヶ所から松浦隆信の刻印が見つかっています。付近の矢割石に残された矢穴跡から慶長時代の作業と思われ、家康からの命を受けた直後、松浦家は稲取本林石丁場に担当丁場を持ったと思われます。この松浦隆信の代表紋「三輪紋(三つ星紋)」が刻まれた巨石が3つの刻印入る巨石近くに存在することが平成八年発行の資料に記載されていたのですが、所在が不明となっていました。
 記載内容の記憶を頼りに付近を調査、露草とツタに覆われた巨石を見つけ、覆っていた露草とツタを払いのけて現れたのは見事な「三輪紋」。三度目の雄叫びを上げたのです。

備前平戸藩第三代藩主・松浦隆信の代表紋「三輪紋(三つ星紋)」。

行方不明になっていた刻印石大岩、再発見の瞬間でした。

つるし雛伝承廻廊 「西伝承廻廊」「北伝承廻廊」が見えてきた。

江戸城築城石について調べていると伊豆の石材切り出しに付随して、江戸時代の様々なことが推測できる事案に出合う様になりました。
その一つ、静岡県東伊豆町稲取が発祥とされている「つるし雛」。(現在、稲取では「雛のつるし飾り」と告知されていますが当ブログでは古来からの呼称「つるし雛」と記載します。)
福岡県柳川市の「さげもん」、山形県酒田市の「傘福」、静岡県東伊豆町稲取の「つるし雛」は日本三大つるし飾りとして知られています。日本三大つるし雛の地が江戸城築城石採石の歴史と密接に繋がっていたのです。

さげもん(写真参照:柳川市 http://www.city.yanagawa.fukuoka.jp)

傘福(写真参照:山形県 https://www.pref.yamagata.jp/)

東伊豆町稲取のつるし雛。

徳川家康の天下普請に始まった江戸城大改修。慶長期から寛永期に至るまで徳川三代の城普請は断続的に発令されていました。神奈川県西部から伊豆東海岸は、江戸城築城石採石地として主に西国大名によって多くの石丁場が設けられたのです。慶長、元和期では天領地であった地元村民を採石に従事させることは、幕府からの厳しいお達しで禁じられていましたが寛永十三年、三代将軍・徳川家光の普請発令による江戸城外堀工事が始まると尾張大納言、紀州大納言、水戸中納言の徳川御三家に至るまで築城石採石普請が発令され、地元村民も適切な報酬を支払うことで築城石採石に関わる作業に従事させることが可能となったのです。

伊豆國稲取村は築城石採石期、天然の良港として築城石石載船の係留地となっていました。伊豆東海岸では石丁場至近の港として川奈、稲取、下田が主な港であったことが細川家古文書によって確認されています。稲取村も大規模な石丁場が設けられ寛永十三年の普請では有馬左衛門佐直純、山崎甲斐守家治、稲葉淡路守紀通、九鬼大和守久隆ほか有力大名が石丁場を担当していました。
隣村の堀川(現北川)村、大川村には紀伊大納言頼宣、立花飛騨守宗茂、戸川土佐守正安、平岡石見守重勝、桑山左衛門佐一玄ほかが採石にあたり稲取村に船を掛け、船を回して江戸まで築城石を運んでいたのです。これら大名の中で、多くの武将から尊敬の念を抱かれていた立花飛騨守宗茂は、柳河(現柳川)藩初代藩主として知られていますが関ヶ原の戦いでは西軍として参戦。敗戦により領地を没収され改易となり、浪人の身分にまでなってしまいましたが後に再び柳河藩主となったのです。関ヶ原の戦いで西軍に就き、改易された後、再び同じ領地の藩主として返り咲いた唯一の大名なのです。
2018年2月、東伊豆町大川にて発見された刻印により立花飛騨守宗茂担当石丁場の存在が決定的となりました。「○に左(崩し字)」の刻印は「立左(りゅうさ)」の 呼称を持っていた立花飛騨守宗茂、その人なのです。

立花飛騨守宗茂(写真参照:Wikipedia)。

築城石残石の刻まれた立花飛騨守宗茂の刻印。

時代背景から推察すると寛永十三年以降、伊豆國稲取村には各地から多くの石工が集まり、石材調達に従事した報酬かつ天領地であったことから、かなり裕福な土地柄であったと思われます。
雛飾りは平安時代の「ひいな遊び」が起源(諸説あります)とされています。寛永期では「寛永雛」と云われ、現在の雅な段飾りとは異なり男雛と女雛の二体だけが飾られる簡素な形態でした。寛永時代、優雅に繁栄した稲取村民は簡素であった寛永雛の両脇につるし雛を飾り、繁栄の象徴としたのかもしれません(現在の伝承内容とは異なります)。大川村で採石作業に当たっていた立花飛騨守宗茂の担当丁場の石工たちが石載船を稲取村から回す際、このつるし飾りを目にして江戸城築城石採石終了後、自國の柳河藩に持ち帰り「さげもん」として伝承されたのかもしれません。「つるし雛伝承西廻廊」を思わせます。

では、「つるし雛伝承北廻廊」の推察です。
寛永十三年、三代将軍・徳川家光は江戸城外堀普請のほか日光東照宮大造営の事業にも着手しています。元和二年に崩御した徳川家康の遺言により亡骸は久能山東照宮に埋葬され増上寺にて葬儀を行いました。翌年、東照大権現として神格化された御霊は日光東照宮に祀られたのです。幕府は家康の一周忌に合わせて日光に東照宮を建造していますが家光によって寛永十三年に大造営を行い現在同様の規模になったと云われています。

日光東照宮 陽明門(写真参照:Wikipedia)

あまり知られていませんが日光東照宮造営時や修築時に伊豆の石材が使われていたのです。築城石の様な大型石材を日光まで運ぶことは恐らく不可能であったと思われますが、石段利用などの石材は河川を遡ることで日光まで運んだようです。石段状の石材は稲取村の南側隣村、尾張大納言義直の担当丁場、耳高村(現河津町見高)田尻川北側の磯丁場からも切り出され、現在でも石段状石材の残石が大量に残されています。
また寛永時代以降、元禄年間、宝永年間には大地震等の天災により江戸城石垣、日光東照宮の修築が度々行われてきました。
日光東照宮の修築に関する資料を読み解く中、宝永年間の作事奉行として活躍した鈴木長頼の逸話に遭遇したのです。鈴木長頼は日光東照宮修築の際、伊豆から切り出した石材を運搬中、運搬船の不都合で日光まで運ぶこと出来なくなったため、現在の千葉県市川市に現存する弘法寺(ぐほうじ)の石段に幕府の許可を取らず石材を利用してしまったのです。この事実が幕府の知れるところとなり、長頼はその責任を取り石段の途中で切腹、切腹した場所の位置する石は彼の無念の血しぶきと涙で濡れ、現在でも乾くことなく「なみだ石」として現存しているのです。

なみだ石(写真参照:Wikipedia)

宝永年間、日光東照宮修理の割り当てと出費がかさみ赤字藩へと転落したのが現在の酒田市を含む庄内藩だったのです。
伊豆の石材切り出しと日光東照宮の修築、日光東照宮修築担当藩であった庄内藩の酒田へ続くつるし雛伝承廻廊が見えたのです。
(上記は史実を踏まえた筆者の推測です。)

静岡県松崎町に現存する築三百年以上の木造建築「旧依田邸」。米蔵の柱に残された傷に歴史の謎は隠されていたのか?

先日(2018年5月19日)、静岡県松崎町の旧依田邸(旧大沢温泉ホテル)を訊ねてみました。
建造されたのは江戸時代の元禄年間(1688~1704)、築三百年以上が経過、堂々とした外観と風格ある館内は、歴史の重厚感を充分に感じさせてくれました。

平成22年(2010)、三百年以上前に建てられた母屋、約二百年前に客間として建てられた離れ、幕末に建てられた蔵三棟(道具蔵、米蔵、味噌蔵)が静岡県指定有形文化財に指定されています。

依田邸

伊豆地区建造物では2番目に古いとされる旧依田邸。築三百年を超える。

館内を見学する中、米蔵の柱の傷が視界に入りました。
館内ガイドをして頂いた松本さんの話では、柱の傷は建造当初からあったのではないかということです。
推測ですが、もし元禄年間の材木を流用して米蔵が建造されていたなら、約三百年以上前の材木が使用されていたことになります。母屋の大黒柱を見ると充分考えられることではないかと思った次第です。そう思えたのも柱の傷に見覚えがあったからなのです。

松崎町大沢、旧依田邸米蔵の柱に残る傷。

伊東市内、宇佐美北部石丁場群の桜ヶ洞(さくらがぼら)石丁場、鎌平石丁場、熱海市内、中張窪・瘤木石丁場より酷似する刻印が見出されています。

宇佐美北部石丁場群・桜ヶ洞(さくらがぼら)石丁場の切出し石材に刻まれている刻印。(写真:伊豆石丁場遺跡確認調査書2010/伊東市教育委員会発行)

刻印は「久」の略字とされています。
宇佐美石丁場を担当した大名家は田中筑後守、松平隠岐守、松平越中守、有馬左衛門佐、稲葉淡路守、九鬼大和守そして山崎甲斐守。熱海市中張窪・瘤木石丁場の担当大名家の中にも山崎甲斐守が存在しています。
松崎の依田家は織田信長の甲州征伐により、武田家が滅びた「天目山の戦」から逃れた依田家の一部が移り住んだとされています。依田家は甲斐武田家とは主従の関係にあり甲州とは深い繋がりがありました。
刻印が山崎甲斐守の刻印であるとは断定できませんが旧依田邸の米蔵に残された傷跡とは歴史的な繋がりがあるのでしょうか?

また、江戸城は寛永十三年、徳川家光の外堀造営を含めた普請以降、明暦三年(1657)・元禄十六年(1703)・安政二年(1855)の大地震により崩落した石垣の修築事業が行われています。
「細川家文書」によると明暦三年の翌年、万治元年(1658)、石屋久兵衛により「伊豆御影石(伊豆南部地区の凝灰岩)」を含めた石材が石材各産地より深川に集められています。石屋久兵衛配下の石工が松崎町の室岩洞付近の凝灰岩を見逃すとは思いません。
旧依田邸各所に見ることが出来る「∧に久」の紋は、石垣構築技術を提供した石屋久兵衛由来の紋かもしれません。石材切り出しに汗を流した石工達が大沢の地に湧出する温泉で汗を流し、主人・久兵衛の「久」の文字を柱に刻んだのかもしれません。

※上記は筆者の推測です。確定している史実ではありませんのでご了承ください。

2017年10月、二週続けて襲来した台風が残した東伊豆町稲取、磯脇石丁場に姿を現した刻印石。

2017年10月、日本列島を二週続けて台風が襲来しました。東伊豆町稲取の磯脇石丁場内に広がる磯丁場は台風による大波で地形が変わる程、大きな影響を受けていたのです。
遊歩道の防波堤を越えた大波は、防波堤内を海水で満たし、満たした海水に大波が襲いかかり遊歩道直上の民家石垣を波で洗ったのです。
地形の変化が気になっていましたが、磯丁場への探索機会がなく、状況を把握していませんでしたので二年ぶりに磯を歩いてみました。
東伊豆町稲取田町地区の堤防から磯釣りで有名な黒根岬に続く遊歩道の終端。台風の大波に洗われた民家の石垣と隣接する土手に驚愕、興奮、大絶叫の江戸城築城石が姿を現していたのです。

▲民家の石垣に組み込まれた矢割石。松平土佐守の刻印が二つ刻まれている。

▲「○に二」「柏一葉」の組み合わせ刻印近景。

民家石垣に組み込まれた矢割石に「○に二」「柏一葉」の刻印が刻まれているではありませんか。使用大名は松平土佐守。新発見の刻印です。隣接する土手には角石まで確認出来たのです。

▲土手から姿を現した角石。

▲角石の上に根を下ろした松の木。

海岸線に目を向けると大型角石。おそらく積船時に落下させてしまい江戸まで運ばれることがなかった石材でしょう。石材を移動時に落下させると落城に繋がるとして、江戸まで運ばれることがなかったのです。

▲積船時、落下させてしまった波打ち際の角石。

今回の発見は、磯脇石丁場で確認されていた「越前」の刻字と刻印、多数の矢穴が開けられた大岩と崖上に鎮座する「進上 松平土佐守」の銘文が入る角石の存在から松平土佐守こと山内忠義の大規模石丁場の存在を裏付ける証となるでしょう。

詳細はhttp://www.chikujohseki.com/isowaki.html

東伊豆町稲取、町内を流れる大川流域に江戸城築城石採石の大規模な石丁場の痕跡を見た!新たな刻印も発見!

静岡県東伊豆町稲取、湿原が広がる細野高原を源流域に持つ「大川」は、山中から急斜面を下り、伊豆急行線・伊豆稲取駅の下を流れ東伊豆町庁舎近くの稲取港に流れ込んでいます。
伊豆稲取駅から大川上流方向を見ると稲取特産の柑橘類が栽培される大規模なみかん畑を見ることが出来ます。みかん畑は南斜面に切り開かれ、大規模な石垣を築いて降り注ぐ太陽光を効率よく利用するための工夫がされています。石垣に利用されている石材に江戸城築城石、大石丁場が存在した痕跡を見ることが出来るのです。

大型矢割跡を残す矢割石。採石は間違いなく慶長時代。

比較的矢穴幅が小さい矢割石。作業は寛永時代以降。

同じ石垣に大型矢穴跡と小型矢穴跡、ドリルで開けられた跡が混在。江戸初期から近年までの時代を物語ります。

写真のように江戸城築城石採石の際、石材を切り出すため、矢割りされた石材の残石が石垣に組み込まれています。
慶長九年、徳川家康の城普請から始まった江戸城大改修事業は寛永十三年、徳川家光の普請後、寛永十六年に完了したといわれています。この石垣には慶長時代に採石した痕跡から寛永時代の採石、近年ドリルによって石材を加工した痕跡まで積み上がっているのです。この石垣周辺には、巨大な岩体が現在でも多数点在しています。その中の一つ、以前から気になっていた巨石がありました。
大川流域という地勢から鬱蒼とした竹林と高湿度な環境下、藪に入り込む度胸がなく、気になる巨石を眺めては溜息をついていましたが、例年にない低温が続いたおかげで巨石へのアクセスが容易になっていたのです。

いよいよ巨石に接近!
目に飛び込んできたのは、今まで確認されていなかった刻印、驚愕大興奮で一気に血圧急上昇となりました。

刻印が刻まれた巨石。刻印石の奥、石垣の手前はコンクリートで舗装された林道。

高さ約4m近い巨石に刻まれた刻印。「九」と「田」の組み合わせに見えますが・・。

初見したときは「大」と「田」に見えました。
「大」と「田」の刻印は場所が異なりますが近くの石丁場跡で確認されている刻印です。しかし、よく見ると「九」と「田」のようです。「田」の刻印は近くの愛宕山石丁場内で複数確認されています。「九」の刻印は沼津市戸田地区の石丁場、伊東市御石ヶ沢の石丁場で確認され、九鬼大和守久隆の刻印として確認されています。戸田石丁場と御石ヶ沢石丁場で確認される「九」の刻印は非常に類似していますが、今回見つかった「九」の刻印は両石丁場の刻印とは異なっているのです。
細川家文書の「伊豆石場之覚」によると寛永十二年前後、九鬼大和守久隆が稲取に担当石丁場を保有していた記載があります。付近のみかん畑から見つかっている「卍」の刻印が九鬼大和守久隆の刻印ではないかといわれていましたが今回、「九」の刻印が発見されたことで同大名家による採石場所が特定できたと思われます。
戸田石丁場と御石ヶ沢石丁場付近、細川古文書にて稲取同様、寛永十二年前後に九鬼大和守採石の記録があります。同じ大名家の別班がそれぞれの石丁場に入ったため、刻印の形状に相違があったのかもしれません。

今回の刻印発見場所付近は、おそらく数十年前まで大量の築城石残石が転がっていたことでしょう。現在では柑橘類栽培の石垣に姿を変えていますが、巨大な自然転石が点在する場所も残っています。未踏査箇所があるため、今後の調査により大発見があるかもしれません。

東伊豆町大川で新たな刻印石発見!発見場所は大規模太陽光発電建設地直下。

東伊豆町大川地区には江戸城築城石採石の大規模な石丁場が存在しています。今まで現認されていた石丁場以外の未踏査エリアから新たな刻印石が発見されました。
発見場所は、大川に存在していた国労教育センター跡地直下です。JR線とは直接縁の無い東伊豆町大川に、なぜ国労の施設があったのでしょうか?現在は大規模太陽光発電の建設工事が始まり、大型車両が現場に出入りしている状況となっているのです。
大丁場がある谷戸山山麓の沢を隔てた対岸が工事エリアであるため、石丁場の存在は予測できていましたが、平成八年・東伊豆町教育委員会発行「東伊豆町の築城石」では未踏査となっていました。
そんな状況下、刻印石発見の一報が飛び込んできたのです。早速、現場確認に・・。

繁茂する笹の中から突然姿を現した巨大な刻印石。

「○にた」刻印近景。

大規模太陽光発電工事現場直下、繁茂する笹藪の中から突然姿を現した巨石の上面に見事な刻印が刻まれていました。
刻印は「○にた」。
熱海、朝日山石丁場で多数確認されている刻印に近似していますが、筆者自身、東伊豆町大川地区では初見の刻印でした。今まで確認されている古文書により「○にた」の刻印は黒田長政の担当石丁場とされていますが、黒田家が東伊豆エリアで採石を行った形跡が無いのです。四百有余年の歴史を紐解く新たな発見に繋がるかもしれません。

しかし、新発見刻印石直上では太陽光発電の工事が進行中。付近の未踏査エリアを早急に調査しなければ、貴重な石丁場の破壊は免れないでしょう。
東伊豆町教育委員会には既に情報提供されていますが現場確認すら実施されず、太陽光発電の工事が始まっている状況も把握していないというお粗末な対応となっているのです。

大規模な石丁場の存在を予感する刻印石。

堆積物に埋もれた刻印石。

刻印は非常に鮮明で大川地区、他のエリアで見ることが出来る刻印に比べ保存状態では最も良い状態であると思われます。
限りあるエネルギー資源から、エコエネルギーに移行することは大切なことだと思います。しかし、いかなる理由があっても貴重な歴史文化遺産を破壊するようなことがあってはなりません。

伊豆國大川村の風景に溶け込む和歌山城主、浅野紀伊守幸長の代表紋。

伊豆國大川村(現・静岡県賀茂郡東伊豆町大川)は江戸城築城石の採石地として、慶長時代から寛永時代に掛けて、多くの大名が築城石を切り出し、海上輸送で江戸まで運びました。
採石の名残が大川地区の谷戸山山中を中心に現存、おそらく同地区の殆どが江戸城築城石の採石地であったことでしょう。
石材の運び出しが行われた道を修羅道(石曳道)と呼びます。現在、修羅道があったと思われる痕跡はコンクリートで舗装され、民家が点在しています。良く有る海沿いの集落の何気ない風景の中に、浅野紀伊守幸長(現・和歌山県)の刻印が存在していました。

舗装路横の浅野紀伊守幸長の刻印石。

畑の石垣に刻まれた結三輪違紋。

修羅道と思われる舗装路、谷戸山に向かう延長線上には徳川家の刻印が残る石丁場があり、続いて松江城築城主、堀尾吉晴の担当丁場が現存。その西方向には羽柴左衛門太夫こと福島正則切り出しの築城石「ぼなき石」と担当丁場、そして浅野紀伊守幸長、担当丁場と連続的に繋がっています。
各大名の担当丁場の判断は、同種の刻印の確認から判断されています。近年、発見された古文書等でも他多くの大名が、江戸城築城石採石の地として伊豆國大川村に関わっていたことが実証されました。
残念なことに四百有余年の歴史を刻んだ江戸城築城石石丁場の一部がこの一年間で観光施設の身勝手な行動で破壊されてしまいました。破壊された石丁場は周囲に点在する刻印から加賀藩、前田家担当の丁場と思われます。
二度と元に戻らない石丁場。これ以上、貴重な石丁場が破壊されないよう、願うばかりです。

熱海市 中張窪石丁場、謎の文字刻印石。

昨年、国の史跡に指定された熱海市、中張窪石丁場です。
文字刻印石が複数確認されている石丁場として、注目されています。
今回、メインルートと思われるコースで潜入してみました。

羽柴右近文字刻印石

「羽柴右近」文字刻印石

石丁場に入って先ず現れるのは、
「羽柴右近」と刻まれた文字刻印石です。
羽柴性で刻まれていますが森忠政の刻印石です。

「是ヨリにし 有馬玄番 石場 慶長十六年 七月廿一日」の文字刻印石。

「是ヨリにし 有馬玄番 石場 慶長十六年 七月廿一日」の文字刻印石。

東伊豆町稲取地区の本林石丁場からも、多くの石材を切り出している有馬玄番頭豊氏の文字刻印石。中張窪石丁場、見所の一つです。

「慶長十九年」の文字を刻む文字刻印石。

「慶長十九年」の文字を刻む文字刻印石。

深く刻まれた刻印と共に「慶長十九年」の文字が刻まれています。
「大坂冬の陣」開戦の年です。

判読不能文字刻印石。

判読不能文字刻印石。

「慶長十九年」と刻まれた文字刻印石が存在する石丁場から引き戻す途中、斜面の自然石が視線に入り、尾根まで斜面を登ると山頂に向かって左側斜面に多数の矢穴石、矢割石、刻印石が点在していました。最標高と思われる矢割石から尾根沿いに下っていく途中、熱海市教育委員会が発行した資料に存在が記載されていない文字刻印石に遭遇したのです。思わず山中一人「何か書いてある!」と雄叫びを上げてしまいました。帰宅後、複数の資料で調べましたが該当する文字刻印石が記載されている資料がありません。
謎の文字刻印石、新発見なのでしょうか?

詳細はhttp://www.chikujohseki.com/chougai.html

「T」の刻印に隠された謎を解き明かす。

先日、半年ぶりに東伊豆町大川地区、谷戸山石丁場に潜入しました。
いよいよ石丁場散策、シーズンインの頃合いとなりました。

一枚目の写真は切り出し途中の角石(江戸城築城石)です。
手前小口に「T」の刻印が刻まれています。
切り出し角石と刻印の存在は以前より確認していましたが、周辺から同様の刻印が見出されず謎の刻印となっていました。
谷戸山-T刻印自然石

2枚目の写真は、切り出し角石小口に刻まれている「T」の刻印近景です。
東伊豆町発行の資料には、大川地区に於いて「T」の刻印は確認されていないようです。
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三枚目の写真は、切り出し角石から約30m北方向に存在する自然石です。
高さ約3.5m、幅約2.5mの巨石ですが、
上部にハッキリとした「T」の刻印を発見しました。
キリシタン大名は、時としてアルファベットの刻印を使用することがあります。

「T」の刻印が意味する大名は・・・。

他地区で「○にT」の刻印を刻んだ大名が存在しています。
羽柴越中守こと豊前小倉藩初代藩主、細川忠興。
婚姻関係にあった明智光秀の娘、細川ガラシャは徳川時代の代表的キリシタンでもあります。
しかし、東伊豆町大川地区には細川忠興が担当した石丁場があったことは、現在まで確認されていません。
もし今回、複数確認された「T」の刻印が細川忠興由来の刻印であったとしたら・・・、新発見ということになります。
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まだまだ、謎の多い江戸城築城石石丁場。
この貴重な文化財を後世に残すべく、今後も石丁場調査を進めていきます。

東伊豆町の築城石HP開設

東伊豆町の築城石HP

東伊豆ecoツーリズム協議会運営「東伊豆町の築城石」HP

東伊豆ecoツーリズム協議会が運営する「東伊豆町の築城石」HPがサイトアップされました。

http://chikujyoseki.higashiizu-ecotourism.com/

東伊豆町内各所に点在する角石が一覧で閲覧することが出来ます。
各石丁場、刻印石のPHOTOなど見所満載のHP、是非アクセスを!