2021年4月14日(水)、メディア各社より皇室に受け継がれた美術品を所蔵する三の丸尚蔵館の建て替え工事現場にて、現存石垣としては最古とみられる江戸城石垣発見の報道がされました。
石垣は幅約16m、高さ4mの七段積み。現場で確認していませんので詳細は解りませんが、メディアにて紹介された写真を見ると石垣は「打込みハギ粗積」の方法で構成され、複数の刻印が確認できます。石質は凝灰岩と安山岩が混在しているように見えます。明言できるのは太田道灌時代の石垣ではない、ということです。国内最古の打ち込みハギ城郭は秀吉の北条攻めの際に築城された一夜城(石垣山城)の城壁の一部とされています。一夜城築城以前の城壁は近江穴太衆に代表される野面積みなのです。太田道灌築城時代では石材を矢割して組み込むことはなく、石垣を組んだとしても野面積みであるため、新たに発見された石垣は太田道灌築城とは異なります。
それでは、神奈川県西部地区から伊豆半島各所に現存する江戸城築城石採石丁場内に残る刻印石より新たに発見された江戸城の石垣について考察してみましょう。
報道写真、映像で確認出来た刻印は「○に中」「は」「三頭巴紋」「○に一」「#型紋」ほか不明紋が複数刻まれていたようです。「は」と不明紋の刻印に関しては今まで見識がありませんので、恐らく石垣を組んだ大名家の家臣または石工の刻印ではないかと思われます。
「○に一」の刻印は備中国庭瀬藩二代藩主・戸川土佐守正安の担当石丁場内にて確認されていますが、筆者は見識が無いため定かではありません。
「#型紋」は複数の大名家が使用する刻印ですが、石垣が造成された時代背景から松平土左守であった土佐藩二代藩主・山内忠義(松平土左守・・「土佐」が「土左」となっているのは山内忠義が朝廷より土佐守の官位を賜った際、朝廷の書記が「土左守」と記述したため、土佐藩第二代藩主・山内忠義のみ「松平土左守」と記述されているのです)の刻印ではないかと思われます。写真の「#型紋」は東伊豆町稲取の本林石丁場内に現存する刻印石です。
詳細はhttps://www.edojyo.tokyo/honbayashi.html
「三頭巴紋」は伊予松山藩主・蒲生忠知(慶長十七年、松平姓を与えられています)の刻印であると思われます。写真は伊東市御石ヶ沢石丁場内に現存する「三頭巴紋」の刻印石です。石丁場内には大量の「三頭巴紋」が刻まれた石材が点在、刻印は「三頭巴紋」と「輪違い紋」または「+(クルス)紋」とセットで刻まれています。
「輪違い紋」を代表紋としていたのは賤ヶ岳の七本槍として有名な伊予国大洲藩初代藩主・脇坂安治です。伊予国内の大名家二家を代表する刻印が刻まれた石材が存在するということは、大名家間で協業または石丁場の譲り渡しがあったのかもしれません。(通常、石丁場の担当は一大名家とされ、大名家間で譲り渡しが成立しないと他大名家の担当石丁場から採石することは不可と定められていました)
詳細はhttps://www.edojyo.tokyo/chougai/oishigasawa.html
「○に中」の刻印は新たに発見された城壁の造成時代を探る最も重要な刻印になります。
「○に中」の刻印は「三頭巴紋」同様、伊東市御石ヶ沢石丁場内より多数発見されている刻印の一つです。
熱海市に残る「聞間文書」には御石ヶ沢石丁場と思われる付近に「御林の間」と呼ばれる細川家の石丁場があったと記載があり、刻印は「○に中」であることが記されています。「○に中」の刻印は、羽柴越中守である細川忠興の刻印であることを意味する刻印とされ、羽柴越中守の「中」を記したと考えられています。しかし、伊豆各地に大規模石丁場を所有していた細川家石丁場から見つかる刻印で「○に中」の刻印は御石ヶ沢石丁場内の一つの谷筋だけなのです。
詳細はhttps://www.edojyo.tokyo/chougai/oishigasawa.html
細川家が羽柴姓に関わる刻印を刻んだということは慶長十九年、大坂の陣以前の刻印でしょう。大坂の陣で豊臣家滅亡後、徳川家が羽柴姓を使用した刻字を許すとは考えにくいのです。そのため細川家石丁場で使用される刻印は慶長十九年以降、細川家の代表紋である「九曜紋」または九曜紋の略刻印「九」を使用しているようです。「九曜紋」「九」の刻印は御石ヶ沢石丁場内にて確認され、隣接するナコウ山石丁場山頂付近からは「羽柴越中守石場」の銘文が刻まれた巨石が存在しています。
参照 https://www.edojyo.tokyo/chougai/nakou.html
「○に中」の刻印については大阪城普請の際、松平宮内少が使用したという文書が確認されています。松平宮内少は備前国岡山藩二代藩主・池田忠雄(いけだただかつ)と思われ「○に中」の刻印石が多数存在する谷筋至近距離に「松平宮内少 石場」の銘文刻字巨石が現存することから池田忠雄の刻印である可能性があります。
池田忠雄は元和六年から開始された大阪城改築工事に参加、担当場所には蛸石、肥後石、振袖石という大坂城内有数の大巨石を次々と城壁に組込みました。また、岡山城の城郭整備、城下町の拡張整備といった大事業を行っています。
しかし、池田忠雄の生誕は慶長七年ですので、江戸城修築の公儀普請が発令された慶長九年では未だ二歳。池田忠雄は七歳で元服していますので、慶長時代後期の公儀普請以降の参加となり、慶長十九年の秀忠による公儀普請に参加は可能ですが同年、大坂の陣が勃発、江戸城改修の普請が中断していますので、元和以降の参加となるでしょう。大阪城改修工事の時は十八歳となっていますので辻褄が合います。
御石ヶ沢石丁場内に多数存在する「○に中」の刻印石ですが、石材を伐るために開けられた矢穴幅は慶長時代から始まり江戸城改修が終了する寛永時代までを物語ります。(矢穴幅により石材採石の時代が判ります。公儀普請直後の慶長時代では、開けられた矢穴に木製の楔を差し込み、水を掛けて木材の膨張を利用して石を割りました。時代が進み、石材切出し技術が発達すると楔は鉄製に変わり、矢穴幅は小さくなります)
参照 https://www.edojyo.tokyo/wordguide.html
山内文書や細川文書による「伊豆・相模石場之覚」では細川忠興は同地区(伊東市宇佐美)への採石について寛永六年の記録が残っていますが慶長、元和時代の採石記録が記載されていません。松平宮内少または池田忠雄については採石記録が残っていないのです。しかし、「松平宮内少 石場」と刻まれた銘文石の事実は現場に残っているのです。
つまり古文書の記載漏れ、または記載間違いがあったと判断できます。他石丁場の記載についても記載間違いを見つけていますので、古文書の記載内容を全て信用することは出来ません。
「○に中」の刻印石は誰の手になるものなのか?
謎は深まるばかりです。
メディアに掲載された写真から判断すると新たに発見された石垣の矢穴幅は慶長時代ではないでしょうか。現地にて刻印の形状、大きさ、開けられた矢穴幅、石材の石質、石材の組まれ方を実際に見てみないと石垣が組まれた時代が判断できません。
複数の刻印石が同一面に組まれていることから、採石大名と石垣を組んだ大名家は異なるようです。
ブログのタイトルを
「新発見された江戸城石垣の謎を解く。」としましたが、
謎を解く「○に中」の刻印が細川忠興なのか池田忠雄なのか確定出来ませんでしたので、新発見の石垣造成時代を確定させるに至りませんでした。
残念!