つるし雛伝承廻廊 「西伝承廻廊」「北伝承廻廊」が見えてきた。

江戸城築城石について調べていると伊豆の石材切り出しに付随して、江戸時代の様々なことが推測できる事案に出合う様になりました。
その一つ、静岡県東伊豆町稲取が発祥とされている「つるし雛」。(現在、稲取では「雛のつるし飾り」と告知されていますが当ブログでは古来からの呼称「つるし雛」と記載します。)
福岡県柳川市の「さげもん」、山形県酒田市の「傘福」、静岡県東伊豆町稲取の「つるし雛」は日本三大つるし飾りとして知られています。日本三大つるし雛の地が江戸城築城石採石の歴史と密接に繋がっていたのです。

さげもん(写真参照:柳川市 http://www.city.yanagawa.fukuoka.jp)

傘福(写真参照:山形県 https://www.pref.yamagata.jp/)

東伊豆町稲取のつるし雛。

徳川家康の天下普請に始まった江戸城大改修。慶長期から寛永期に至るまで徳川三代の城普請は断続的に発令されていました。神奈川県西部から伊豆東海岸は、江戸城築城石採石地として主に西国大名によって多くの石丁場が設けられたのです。慶長、元和期では天領地であった地元村民を採石に従事させることは、幕府からの厳しいお達しで禁じられていましたが寛永十三年、三代将軍・徳川家光の普請発令による江戸城外堀工事が始まると尾張大納言、紀州大納言、水戸中納言の徳川御三家に至るまで築城石採石普請が発令され、地元村民も適切な報酬を支払うことで築城石採石に関わる作業に従事させることが可能となったのです。

伊豆國稲取村は築城石採石期、天然の良港として築城石石載船の係留地となっていました。伊豆東海岸では石丁場至近の港として川奈、稲取、下田が主な港であったことが細川家古文書によって確認されています。稲取村も大規模な石丁場が設けられ寛永十三年の普請では有馬左衛門佐直純、山崎甲斐守家治、稲葉淡路守紀通、九鬼大和守久隆ほか有力大名が石丁場を担当していました。
隣村の堀川(現北川)村、大川村には紀伊大納言頼宣、立花飛騨守宗茂、戸川土佐守正安、平岡石見守重勝、桑山左衛門佐一玄ほかが採石にあたり稲取村に船を掛け、船を回して江戸まで築城石を運んでいたのです。これら大名の中で、多くの武将から尊敬の念を抱かれていた立花飛騨守宗茂は、柳河(現柳川)藩初代藩主として知られていますが関ヶ原の戦いでは西軍として参戦。敗戦により領地を没収され改易となり、浪人の身分にまでなってしまいましたが後に再び柳河藩主となったのです。関ヶ原の戦いで西軍に就き、改易された後、再び同じ領地の藩主として返り咲いた唯一の大名なのです。
2018年2月、東伊豆町大川にて発見された刻印により立花飛騨守宗茂担当石丁場の存在が決定的となりました。「○に左(崩し字)」の刻印は「立左(りゅうさ)」の 呼称を持っていた立花飛騨守宗茂、その人なのです。

立花飛騨守宗茂(写真参照:Wikipedia)。

築城石残石の刻まれた立花飛騨守宗茂の刻印。

時代背景から推察すると寛永十三年以降、伊豆國稲取村には各地から多くの石工が集まり、石材調達に従事した報酬かつ天領地であったことから、かなり裕福な土地柄であったと思われます。
雛飾りは平安時代の「ひいな遊び」が起源(諸説あります)とされています。寛永期では「寛永雛」と云われ、現在の雅な段飾りとは異なり男雛と女雛の二体だけが飾られる簡素な形態でした。寛永時代、優雅に繁栄した稲取村民は簡素であった寛永雛の両脇につるし雛を飾り、繁栄の象徴としたのかもしれません(現在の伝承内容とは異なります)。大川村で採石作業に当たっていた立花飛騨守宗茂の担当丁場の石工たちが石載船を稲取村から回す際、このつるし飾りを目にして江戸城築城石採石終了後、自國の柳河藩に持ち帰り「さげもん」として伝承されたのかもしれません。「つるし雛伝承西廻廊」を思わせます。

では、「つるし雛伝承北廻廊」の推察です。
寛永十三年、三代将軍・徳川家光は江戸城外堀普請のほか日光東照宮大造営の事業にも着手しています。元和二年に崩御した徳川家康の遺言により亡骸は久能山東照宮に埋葬され増上寺にて葬儀を行いました。翌年、東照大権現として神格化された御霊は日光東照宮に祀られたのです。幕府は家康の一周忌に合わせて日光に東照宮を建造していますが家光によって寛永十三年に大造営を行い現在同様の規模になったと云われています。

日光東照宮 陽明門(写真参照:Wikipedia)

あまり知られていませんが日光東照宮造営時や修築時に伊豆の石材が使われていたのです。築城石の様な大型石材を日光まで運ぶことは恐らく不可能であったと思われますが、石段利用などの石材は河川を遡ることで日光まで運んだようです。石段状の石材は稲取村の南側隣村、尾張大納言義直の担当丁場、耳高村(現河津町見高)田尻川北側の磯丁場からも切り出され、現在でも石段状石材の残石が大量に残されています。
また寛永時代以降、元禄年間、宝永年間には大地震等の天災により江戸城石垣、日光東照宮の修築が度々行われてきました。
日光東照宮の修築に関する資料を読み解く中、宝永年間の作事奉行として活躍した鈴木長頼の逸話に遭遇したのです。鈴木長頼は日光東照宮修築の際、伊豆から切り出した石材を運搬中、運搬船の不都合で日光まで運ぶこと出来なくなったため、現在の千葉県市川市に現存する弘法寺(ぐほうじ)の石段に幕府の許可を取らず石材を利用してしまったのです。この事実が幕府の知れるところとなり、長頼はその責任を取り石段の途中で切腹、切腹した場所の位置する石は彼の無念の血しぶきと涙で濡れ、現在でも乾くことなく「なみだ石」として現存しているのです。

なみだ石(写真参照:Wikipedia)

宝永年間、日光東照宮修理の割り当てと出費がかさみ赤字藩へと転落したのが現在の酒田市を含む庄内藩だったのです。
伊豆の石材切り出しと日光東照宮の修築、日光東照宮修築担当藩であった庄内藩の酒田へ続くつるし雛伝承廻廊が見えたのです。
(上記は史実を踏まえた筆者の推測です。)

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