伊豆東海岸、稲取東町に「八百比丘尼(やおびくに)」と言われる道祖神が現存しています。道祖神は伊豆の凝灰岩で丸彫り坐像、神奈川県西部エリアから伊豆東海岸に分布する伊豆型道祖神の形態となっています。
「八百比丘尼」と言われる所以は、稲取の地を訪れた民俗学者・折口信夫先生により当時、現存していた状態から像が女神像で手に持つ素材を見て「八百比丘尼」であると判断したようです。
「八百比丘尼」とは日本各地に語られている伝説ですが日本海側、若狭湾地域で語られる伝説で知られています。
若狭国の庄屋の娘が浜で拾った人魚の肉を振る舞われた際、気味悪がって食さなかった村人達の中、娘だけが食べてしまい、その後800年生き続けたという伝説。現在の福井県小浜市には、八百比丘尼が入定したとされる洞窟が有り、入定地に残る石像と仏殿内の八百比丘尼像が稲取に残る道祖神に類似していたことも一つの根拠となり、道祖神は八百比丘尼とされたようです。
東伊豆町内には多くの道祖神が現存していますが、片瀬地区の道祖神も稲取の八百比丘尼像とやや似ているため、私は稲取東地区の道祖神は八百比丘尼ではないのでは、と疑問に思っていました。
現在、様々な江戸城築城石に関わる研究をする中、熱海市伊豆山礼拝堂石丁場より「羽柴丹後守 けい長九年」の刻字が入った刻印石が見つかっていることを知ったのです。
羽柴丹後守・・、丹後宮津藩の初代藩主・京極高知のことです。八百比丘尼伝説が残る若狭湾に面した一国を領主としていました。また高知県、山内神社資料館に残る文献資料に「伊豆國稲取」の文字と共に「京極丹後守」の文字が記されていたのです。八百比丘尼伝説が残る若狭と伊豆稲取が繋がりました。
さらに全国行脚をしたと言われる八百比丘尼は四国地方も訪ね、いくつかの八百比丘尼伝説を残しています。その中、高知県須崎市の神社には八百比丘尼塔が現存し、「高知県保護有形文化財」に指定されています。この神社の名称は「賀茂神社」・・。地元では「賀茂さま」と呼ばれ親しまれています。東伊豆町稲取を含む伊豆南部地方は「賀茂」と呼ばれていますが偶然の一致でしょうか?
更に香川県三豊市高瀬町の威徳院・勝造寺にも八百比丘尼塔が現存しています。建立は古く永和4年3月6日(1378年)とされています。年月を経て散失してしまった塔を再建したのは丹後宮津藩の系譜から繋がる丸亀藩・京極家なのです。再建は1678年、江戸城改修終了の1637年から約40年後、丸亀藩主・京極高豊による再建でした。
伊豆稲取に残る八百比丘尼像と江戸城改修の大号令を発した徳川家康の天下普請により、伊豆の地に石丁場を求めた丹後宮津藩の京極家。丹後宮津藩の系譜が繋がる丸亀藩京極家が再建した八百比丘尼塔。四国を行脚した八百比丘尼伝説が残る須崎の賀茂神社。そして、賀茂地区の稲取。歴史が織りなす物語が一つの線となって稲取の八百比丘尼像となっているようです。
伊豆稲取に採石地を求めた京極家の石工が、目の前の広がる相模湾を望み我が故郷、若狭の海を思い出し、若狭に残る八百比丘尼伝説を石像として帰郷の思いを形にしたのが伊豆稲取東町に残る道祖神「八百比丘尼」かもしれません。