何故、此所に!?、?、?。 あるはずのない場所で見つかった江戸城築城石切出残石。 埋蔵文化財を破壊、放置した行政の怠慢を問う。

 2018年、晩秋のことでした。
 伊豆稲取に来ていた知人にジオサイトを見せようと静岡県立稲取高校より北西方向、約1kmに位置する噴火口跡(一万数千年前に噴火)のスコリア火口壁と火山弾のある場所を案内したときのことです。
 秋の深まりを全く感じることが出来ない陽気に、例年では下草が枯れ、火口壁への侵入が容易になるのですが、この年は下草が繁茂、火口壁への侵入を断念しました。火口壁への入り口付近は整地されているため、クルマを容易に回すことが可能です。ジオサイトを見せることが叶わず、無念に感じながら帰路に着こうとクルマを回したその時、ススキの茂みの片隅に置かれた石の上辺に見覚えのある形状が視界に入りました。

「・・んっ?、エッ・・、何で・・?」

 横に乗っている知人は、何があったのかと怪訝そうな顔で私の顔を覗き込んでいます。「チョット待ってて・・。」と知人を置き去りにして視界に飛び込んできた石に駆け寄りました。
 ススキの茂みの背後に隠れていた大量の巨石が現れ、思わず絶句そして驚愕。

 今まで、数千の江戸城築城石の切出残石を見て、脳裏に刻まれた築城石形状の記憶領域が確立されている自身の能力に自ら驚かされました。クルマを回す際、見覚えのある形状は矢割跡であることを確認。ススキの茂みの背後に隠されていた巨石は、見事な江戸城築城石切出残石だったのです。
 知人にジオサイトを見せることは叶いませんでしたが、「思わぬ場所」で四百有余年の歴史の痕跡を見せることが出来たのです。

 築城石残石の巨石を見つけた場所は「思わぬ場所」なのです。
 地質的にスコリア火山の噴火口内と確認されている地勢で、火口からの噴出物は主に赤色スコリア。溶岩流が確認されていないエリアなので、築城石となる玄武岩は噴出していない筈です。
 私の頭の中は多数の「?」で満たされました。
 知人を宿舎まで送り届け「?」で満たされた頭をフル回転させ、東伊豆町文化審議会の会長、黒川さんにさっそくTEL。黒川さんは東伊豆町の築城石研究では知る人ぞ知る方なのです。

 黒川さんとは現場で待ち合わせ、到着を待つ間、改めて切出石材を調査。矢割跡の大きさから徳川家康の手伝普請(城普請、公儀普請)より始まった築城石採石開始直後の慶長時代から徳川家光の普請、寛永時代の採石跡まで時代は様々。約二十の巨石に矢割跡が確認出来たのです。刻印は確認出来なかったため、放置された築城石残石を採石した大名家を確定することは不可能でした。

 現場に到着した黒川さんから開口一番、「これは以前、築城石公園の計画があったとき、大川地区から持ってきた石だ!こんなところに隠してあるとは酷いなぁ・・。ここは役場が管理する土地だから隠しやすかったんだろう。」築城石公園は、現在の東伊豆町商工会横の公園が予定されていたらしいのですが計画は頓挫。現地には大川地区から運び込んだ刻印が刻まれた築城石(刻まれている分銅紋から堀尾吉晴担当丁場から運び出された石材)でモニュメントが設置されています。
 私が師と仰ぐ岡田善十郎さん(2018年末、ご逝去されました。残念です。)はモニュメントや町内に点在する石丁場から運び出した貴重な築城石に関して「なぜ、貴重な文化財を石丁場から運び出したりするんだ。そんなことは決してあってはならない。」と行政の歴史・文化に対する意識の低さを嘆いておられました。

 あるはずのない場所に放置された江戸城築城石切出残石。周囲の樹木の成長具合から放置後、約20年近く経過していると思われます。東伊豆町総務課及び教育委員会には放置石材について情報提供しました。
 原状復帰として元の位置に戻すことは、運び出し現場が確定できないので不可能でしょう。貴重な文化財を運び出し、不要だからと人の目に触れない様、ススキの茂みの背後に隠した行政の責任の取り方を問いたいと思います。
 せめて、至近距離にある噴火口跡の火口壁と火山弾と併せて、本来あるべきはずのない場所に放置した江戸城築城石切出石材ですが、慶長時代から寛永時代までの採石矢穴跡が見学できる場所として看板を作成、観光客の皆様に見ていただくというプランぐらいの立案は起てるべきでしょう。

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