御石ヶ沢石丁場で見つけた矢穴石に残る謎の石鑿跡。 解明を試みる。

伊豆東海岸を貫く国道135号線、伊東市と熱海市の境界付近に広がる御石ヶ沢石丁場群に潜入したところ、沢本流の一角で矢穴石を見つけたのです。実測しませんでしたが矢穴幅は100mm未満で築城石採石時期は寛永時代ではないかと思われます。

御石ヶ沢石丁場で見つけた矢穴石。

矢穴幅の大きさを確認しようと手をかざしたところ、石面の苔に隠れた石鑿跡を目にしました。
「何か書いてある~!」
慌てて軍手をはめた掌で苔を払いのけてみました。

苔を払いのけて現れた石鑿跡。

明らかに石鑿の線条痕です。
線条痕は文字を刻んでいるようですが、判読不明です。
仕事の関係でPhotoShopの扱いに慣れていますので、自宅にて石鑿で刻まれた線条痕を明確にしようと、あれこれ試行錯誤してみました。

画像加工で石鑿による線条痕を目立たせてみた。

画像に様々なフィルターを組み合わせて、石面に刻まれた線条痕を目立たせ、トレースを試みました。

画像を様々な角度で回転させ、文字として認識できるか試してみましたが、現在の天地が最も文字らしく認識できたのです。しかし、トレースしてもハッキリ判読できません。
「六※ん」・・。三文字の様に見えます。
漢数字の「六」、二文字目は解りません。三文字目はひらがなの「ん」。

以下、筆者の推測になります。
「六※ん」、曲解かもしれませんが「六ばん」ではないかと推測してみました。
矢穴幅から寛永時代と推察できる作業年代と「六ばん」の文字との共通点・・、思い当たる節があるのです。

時は寛永十三年。
江戸城大修築、最後の大事業と言われる外堀工事が、刻の将軍・徳川家光によって普請が下されたのです。全国六十二家の大名家や徳川家を一番組から六番組に分けて分担作業をさせたのです。
六番組は、
鍋島信濃守勝茂 三十五万七千石
生駒讃岐守高俊 十七万三千石
伊藤遠江守秀宗 十万石
織田出雲守高長 二万石
織田辰之助信勝 三万四千石
秋月長門守種春 二万七千石
島津左馬頭忠興 三万石
遠藤但馬守慶利 二万四千石
一柳監物直盛 二万八千石
京極丹後守高広 十二万三千石
京極修理大夫高 三万五千石
青木甲斐守重兼 一万石
織田大和守尚長 一万石
小出大隈守三尹 一万石
吉田兵部少輔重恒 五万五千石
久留島丹波守通春 一万四千石
以上、16家。備前佐賀の鍋島勝茂をはじめ殆どが伊豆東海岸の石丁場を担当しているではありませんか。

御石ヶ沢で見つけた石鑿線条痕が刻まれた矢穴石は「六番組」の作業場所であることを物語っているのではないでしょうか?

(寛永以前、元和六年の城普請時にも「六番組」まで組織が組まれ、分担作業で江戸城修築事業を行いましたが、元和六年に組まれた「六番組」は東国大名中心で伊豆東海岸からの採石は実施されていないようです。)

御石ヶ沢石丁場の他写真は、
http://www.chikujohseki.com/chougai.html