江戸城築城石石丁場研究家、駿府城の築城石採石地と云われる「小瀬戸石切場」を訊ねる。

江戸城の築城石を採石した石丁場跡をブログで紹介してきましたが、今回は江戸城に匹敵する城郭であり、徳川家康が秀忠に将軍職を継承した後、家康隠居の場所であった駿府城の築城石採石地と云われる藁科川(わらしながわ)に流れ込む沢の谷筋を訪れました。
石丁場への探索調査はスズメバチやマダニの遭遇リスクが低くなる11月下旬からシーズンインに入ります。今回訪れたのは9月下旬、夏の名残がまとわりつく肌感覚の中、クルマで潜入できる最深部まで入り、場所だけ確認して戻るつもりでいました。
「小瀬戸石切場登山口」の道標を確認したところ「石切場430m」の表示・・。 「430m先で矢穴を残す大岩と会える」と思うと歩みは既に登山道に向かっていました。スズメバチと一匹でも遭遇したら戻ろうと決めて登山道への潜入を始めたのです。登山道入り口周辺にはボランティアにより建てられた休憩小屋「小瀬戸石切庵」があり、登山道は下草が刈られ歩きやすい状態になっていました。ボランティアの方々には感謝です!

クルマで潜入できる林道の最深部。
ボランティアにより建設された「小瀬戸石切庵」。

登山道は上方に向かって右側を流れる沢沿いに整備されています。急斜面もあり登山道口に杖として利用する竹が用意されていることが頷けました。
江戸城の築城石採石地、加工場所は「石丁場」と表現しますが、静岡市小瀬戸では「石切場」と表現しているようです。

沢上流方向に進むなか、施設された砂防堤の多さに驚きました。
巨大な駿府城の城壁用石材を曳き出していた谷筋なら、必ず修羅(石材を運ぶ木製の枠組み)から落としてしまった石材が存在するはずです。修羅から落としてしまった石材は落城に繋がるとして城壁に利用されることはなく、その場に放置されるか修羅道(修羅に乗せた石材を運ぶための石曳道)に敷き詰める石として細かく割られ再利用されるのです。多数の砂防堤を建設するにあたり点在する自然転石の中に明らかに人的加工が加えられた石材に気が付くはずですが、気が付かなかったのでしょうか?
不思議に思いながら沢底や周辺を見ながら登山道を進みました。9月下旬ですが外気温は真夏日、そのため沢付近は下草が繁茂し点在する石材の詳細を確認出来ませんでした。見え隠れする石材には矢穴や矢割りされた痕跡はありません。
また、修羅道の存在を探しましたが非常に狭い谷筋、修羅道を造成する余裕は無いようです。沢中は自然転石が多数あるため、沢中を利用して切り出した石材の運び出しは不可能ではないでしょうか?登山道が修羅道跡では・・、と考えましたが、上方に向かって左側からの水流によって運び込まれた土砂が形成する尾根が存在するため修羅道の造成は出来ません。どのようなルートで石材の運び出しが行われたのか?下草が枯れる季節に再検証してみたいと思います。

登山道に入って約25分。「壱ノ石」に辿り着きました。
途中、小型のクマバチとの遭遇はありましたがスズメバチに出会うことはありませんでした。忽然と現れる巨石に驚愕、近づくと体長2m越のアオダイショウの出迎えを受けました。

忽然と現れる「壱ノ石」。高さは約5m。

「壱ノ石」周辺は竹や木が伐採され、ベンチが備えられ整備されています。巨石に開けられた矢穴は備えられたベンチの右側石面と巨石上部に確認出来ました。石面下部の矢穴は二つ。矢穴の直線上には矢穴を開けるためのケガキ石鑿跡が残されていました。

矢穴が開けられた石面。
石面下部に開けられた二つの矢穴とケガキ石鑿跡。

開けられた二つの矢穴幅は約7cm。矢穴幅7cmでは木製楔は使用されていません。作業は鉄製楔が使用された寛永時代であることを物語ります。
石面上部には横一文字に開けられた矢穴が確認出来ます。上部の矢穴幅も約7cmで作業は寛永時代です。整然と開けられた矢穴の下に見覚えのある石鑿跡を見つけました。矢穴を開け損なった石鑿跡なのか刻印なのか判断できませんが、江戸城築城石石丁場の伊豆國湯川(伊東市)桜ヶ洞丁場内(さくらがぼらちょうば)に存在する切出し残石の小口に酷似する石鑿跡が残されているのです。

石面上部に開けられた横一文字の矢穴列。
矢穴列下に刻まれた見覚えのある石鑿跡。
伊豆國湯川、桜ヶ洞石丁場に残る切出し残石。
桜ヶ洞石丁場の切出し残石小口に残り石鑿跡。

桜ヶ洞石丁場には複数の大名家が石材調達のために石丁場を担当していましたが、酷似する石鑿跡が残された石丁場付近には「輪違い紋」と「久紋」の刻印が多数見つかっています。「輪違い紋」を刻んだ大名家は賤ヶ岳の七本槍として名を連ねた脇坂安治ではないかと思われます。また、「久紋」を刻んだ大名家は久留島丹後守通春と思われ、「小瀬戸石切場」の「壱ノ石」に酷似する石鑿跡を刻んだ大名家は何れかの大名家である可能性があります。しかし関連する古文書や周辺石材の刻印が確認出来ないため推測の域を出ません。

矢穴が開けられた石面の裏側にあたる巨石の上部には、矢割面を残す作業痕と矢穴が確認出来ました。矢割りされた部分があるため切り落とされた残石が周囲に存在することが考慮できますが、繁茂した下草で確認することは出来ませんでした。
巨石上部裏側の矢穴幅は5cm~6cmでやはり寛永時代の作業痕であることを物語っています。矢割面に残された矢穴幅も最大で約8cm・・。
「小瀬戸石切場」は慶長12年の徳川家康による駿府城築城の公儀普請に伴う作業跡であると云われていますが、「壱ノ石」に残された矢穴は寛永時代の作業であることを物語っています。

「壱ノ石」上部裏側の矢割跡。
「壱ノ石」上部に残された矢割面。

「壱ノ石」から更に登山道を進むと規模の大きい石切場が残されていますが探索シーズンに入って季節に再び訪れたいと思います。それまで採石が行われた時代考証はお預けと致しましょう。

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