江戸城築城石の採石地、石丁場跡の調査研究を行っていると意外な史実と遭遇することがあります。
江戸城は平安時代末期から鎌倉時代初期に存在していた武蔵江戸氏初代当主・江戸重継の居館から始まり享徳6年(1457)、平山城として扇谷上杉家の家臣・太田道灌により陣屋として築かれた経緯を経て天正18年(1590)、天下人となった豊臣秀吉の命により徳川家康が駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・川中島を除く信濃国5ヶ国を召し上げられ北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封となった際、湿地帯に建っていた江戸城に入城後、家康による大改修を迎えるのです。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は慶長8年(1603)、征夷大将軍として江戸幕府を開き、江戸の街の造成に着手、慶長9年(1604)には江戸城の大改修である公儀普請(手伝普請、城普請ともいわれ後世になって天下普請と呼称されるようになりました)を発令したのです。公儀普請は江戸城に留まらず、江戸城改修の普請発令後、名古屋城、大坂城、高田城、駿府城、伊賀上野城、加納城、福井城、彦根城、膳所城、二条城、丹波亀山城、篠山城の築城改修に至りました。
江戸城改修は三代将軍・徳川家光の寛永時代まで続き、家光の普請では外堀工事の大事業を開始。外堀工事にあたっては徳川御三家まで石材の調達をするよう命が下ったのです。
筆者は「徳川御三家とは何者・・?」という疑問が頭をよぎりました。
「徳川」を名乗るほどなのだから身分が高いのであろう、と思い調べたところ、あまりにも意外な史実に遭遇することとなったのです。
徳川御三家とは紀州徳川家、尾張徳川家、水戸徳川家の三家で徳川親藩の最高位で三つ葉葵の家紋使用が認められた別格の家系であり、将軍家の血筋が途絶えた場合、徳川御三家から将軍が選出される事となっていました。つまり、徳川家が途絶えることなく、無嗣断絶による改易を避けるための家系なのです。
徳川御三家の祖、紀州徳川家は徳川頼宣(家康十男)、尾張徳川家は徳川義直(家康九男)、水戸徳川家は徳川頼房(家康十一男)で徳川頼宣と徳川頼房は家康の側室であったお万の方が生母です。
徳川家康には2人の正室と19人の側室がいて、16人の子供が居たとされ、お万の方は家康54歳の時、17歳で側室に入っています。家康・・、なかなかの「暴れん棒将軍」だったようです。
家康54歳の時、17歳で側室となり徳川御三家の内、二家の生母であるお万の方の生涯に興味を持ち、少々調べてみたところ思わぬ史実と遭遇しました。
お万の方は天正5年(1577)、智光院(北条氏隆の娘とされていますが北条氏尭の娘または田中泰行の娘であるといった諸説があります)と勝浦正木氏の当主・正木頼忠との間に安房勝浦で生誕しています。
父である正木頼忠は安房里見家の家臣である正木時忠を父としていましたが時忠が里見家からの独立を図り、北条氏康に接近。その影響で嫡男である頼忠は、12歳にして小田原城に人質として赴き、数年間暮らしましたが北条から手厚い待遇を受け、智光院を正室に迎え、お万の方を授かっています。頼忠はその後の家督相続で房総に帰国。里見八勇士として活躍したという伝承があるのです。里見八勇士はその後、江戸時代の文筆家・滝沢馬琴により「南総里見八犬伝」として壮大な物語となって文壇に登場しました。
頼忠が房総に戻る際、正室であった智光院と離縁。その後、頼忠は里見家から後室を迎えています。娘のお万の方は智光院と共に小田原に残されることになったのです。頼忠と離縁した智光院は、天正12年(1584)北条氏直に仕え且つ伊豆國河津笹原城々主の蔭山氏広の正室となっています。お万の方を養女に迎えた蔭山氏広は、北条の家臣として秀吉の北条攻めの際、山中城の籠城軍に参加していましたが落城と共に妻子を連れて伊豆國河津笹原城に戻りました。その後、伊豆國修善寺に蟄居したとされていますが定かではありません。
徳川家康の関東移封の際、三島に陣を置いた家康の身辺世話役であった江川家が長身で器量良く才女であったお万の方を接待役に任命、そこで家康に見初められたお万の方は側室となったのです。側室になるには源氏の系譜でなければなりません。そこでお万の方は蔭山家から江川家の養女となり文禄2年(1593)、家康の側室となりました。
その後、伏見城において慶長7年(1602)3月7日には頼宣(紀州大納言)を、慶長8年(1603)8月10日には頼房(水戸中納言)を生んでいます。
側室となったお万の方の呼称は城内では「蔭山殿」と呼ばれ、家康逝去後は出家して「養珠院」となっています。
徳川将軍家は7代将軍・徳川家継が8歳で逝去したため8代将軍は紀州徳川家から選出されました。選出されたのは暴れん坊将軍のモデルとなった徳川吉宗です。吉宗が「暴れん棒」であったかどうかは定かではありません。
その後、14代将軍までお万の方の血筋である紀州徳川家から将軍が選出されたのです。
また、お万の方は「天下の副将軍・水戸黄門」様の祖母にあたり、現代の歴史物語において、その貢献度は絶大なモノがあります。
お万の方を取り巻く逸話は大変多く、父方の正木頼忠は勝浦にて敵に攻められた際、伊豆國河津庄に一時期、身を寄せていたという云い伝えがあります。また、頼忠の系譜を探ると令和天皇から遡って15代前の後奈良天皇とは縁戚関係となり、現在の令和天皇とは直系の家系(男系・女系合わせて)であることが判明しました。同時期の縁戚には14代前の正親町天皇(おおぎまちてんのう)に蘭奢待(らんじゃたい・・聖武天皇時代に中国から渡来した香木)を送り付けた織田信長、信長を討伐した明智光秀が存在しています。
現在、静岡県河津町峰地区を中心に50家近く存在する正木姓が正木頼忠由来の姓で系譜が繋がっているとすれば、お万の方直系の徳川8代将軍・徳川吉宗から14代将軍・徳川家茂まで、また水戸黄門様(水戸光圀)とは縁戚関係となるのです。また、その系譜は天皇家から分岐した家系であるかも知れないのです。
三代将軍・徳川家光の江戸城外堀造営普請にあたって、紀州徳川家は西湘地区から伊豆に掛けて多くの石丁場を担当していますが、河津地区至近の東ノ浦耳高(現・河津町見高)には尾張徳川家が担当、紀州徳川家は距離を置いた東ノ浦堀川(現・東伊豆町北川)に石丁場を置いていました。
お万の方が滞在していた笹原城(現・河津城)の至近距離に紀州徳川家を担当させなかったのは、何か江戸幕府の思惑があったような気がします。
お万の方に関する話題は、まだまだ語り尽くすことが出来ません。静岡県河津町内・乗案寺にはお万の方愛用の籠が現存、同町林際寺にもお万の方ゆかりの資料が存在しているようです。
その他の逸話については、機会があれば続編にて・・・。
江戸城築城石石丁場之覚から見ています。各石丁場の現場を調査していただいて感謝申し上げます。調査の中に、伊豆國・西海岸 戸田石丁場調査報告があります。私は、戸田史談会。江戸城天守を再建する会に所属しています。水口淳(みずぐち じゅん)と申します。2009年までは戸田地区内の石丁場の調査をしていましたが2010年に脊柱管狭窄症手術をしましたが手術の後遺症で昨年まで山に行くことができなく、昨年より、又、山に行くようになりました。石丁場之覚を見ていました。
水口さま
コメント、ありがとうございます。ブログを主催する杉本です。
以前、戸田の石丁場を訪れた際、名刺交換・ご挨拶させていただきました。
また、戸田地区石丁場を訪れた際はお話を聞かせてください。