昭和32年2月、伊豆大島・岡田地区の勝﨑沖で漁をしていた漁師が海底約20mの水深から黄金に輝く慶長小判を引き上げたのです。その後、周辺海域から慶長小判103枚、一分金63枚を発見。伊豆大島の埋蔵金伝説として語られました。
写真は現在、東京国立博物館で展示されている伊豆大島沖から引き上げられた慶長小判、実物です。
この慶長小判について、なぜ伊豆大島沖の海底に存在していたのか、現在でも謎のままとなっています。
伊豆大島は江戸時代より物流航路の拠点となっていました。多くの商船が岡田港に寄港していたと思われますが同時代、付近で沈没したとされる商船は3隻確認されています。
1663(寛文3)年2月に沈んだ津の功天丸、1705(宝永2)年の宇和島の藩船、第二伊予紋丸、1737(元文2)年、明神丸です。
また、伊豆東海岸より江戸城築城石を運んでいた石載船に慶長11年5月25日、大規模な海難事故が発生。当時の海難事故について古文書に記載があり、鍋島信濃守勝茂の石船120艘、加藤左馬守嘉明の所有船46隻、黒田筑前守長政の所有船30隻が伊豆沖で沈んでしまったのです。
当時、石工たちの給金はお米で支払われていましたが、お米の購入費用や石材切り出し道具の修理費用など多額の金銭が必要であったことでしょう。江戸城築城石石載船に多額の金銭が運ばれていたことも考えられます。
伊豆大島沖の慶長小判と一分金、沈没商船のものなのか江戸城築城石石載船のものなのか謎は深まるばかりなのです。
もし、慶長11年の海難事故に伴う金銭だとすれば、伊豆沖周辺には、とてつもない枚数の慶長小判他金銭が沈んでいることでしょう。
間違いなく、石船でしょう。東海発か静岡発で、大島回り、行きは千両箱を乗せて、途中、真鶴で石を積み、江戸城築城に使用して、帰りは、空船に物資を満載し、大島回りで帰国したでしょうから、
問題は、行きか帰りか?
だと思います。
間違いなく、石船でしょう。東海発か静岡発で、大島回り、行きは千両箱を乗せて、途中、真鶴で石を積み、江戸城築城に使用して、帰りは、空船に物資を満載し、大島回りで帰国したでしょうから、問題は、行きか帰りか?だと思います。