時代が異なる作業痕跡を残す巨石の謎解明となったのが、側面下部の刻印です。
大型刻印ですが、何度も見てきた巨石なのに気が付かなかったのが不思議です。
刻印は隣接石丁場から見つかる鍋島信濃守勝茂(佐賀城主 35万7千石)の刻印に酷似しています。
鍋島勝茂は徳川家康による慶長九年の城普請(天下普請)から寛永十三年の徳川家光による城普請に至まで、
江戸城の改修事業に参加、伊豆各地に担当石丁場を持っていました。
伊豆國大川地区には江戸城築城石採石が始まった直後に担当丁場を持ち、
築城石採石にあたったようです。
江戸城築城石採石は慶長九年の天下普請から寛永時代の外堀大工事まで、連続的に行われたわけでは無く、
大坂夏の陣、冬の陣や慶長大地震発生の影響で断続的に普請が発令されていたのです。
石丁場は譲り渡しが無ければ別大名が担当することは無いと言われています。
今回発見した巨石上部には「△」の刻印が刻まれています。
つまり、「△」の刻印を刻んだ大名家は鍋島勝茂配下の石工では無かったと思われ、
大型の刻印を刻んだ巨石を含んだ石丁場は鍋島勝茂から寛永時代、他大名家に譲り渡しがあった思われます。
謎であった時代が異なる作業痕は、
石丁場譲り渡しの証拠ではないかと推測できたのです。