保存状態が良い「分銅紋」近景。
分銅紋は堀尾山城守吉晴の代表紋とされています。
堀尾吉晴は織田信長に仕え、羽柴秀吉(豊臣秀吉)配下の武将として活躍。
天正七年の播州姫路三木城攻めで功績を挙げ、秀吉より分銅紋の旗印と槍十本を賜っています。
秀吉より賜った「分銅紋」が堀尾吉晴の代表紋となったようです。
天正十八年、徳川家康が江戸に加増の上、移封されると遠州浜松城主として遠州に入りました。
慶長五年、関ヶ原の役では徳川方の東軍として参戦、
家康は堀尾親子の忠誠に対して、遠州十七万石より二十四万石に加増して出雲国富田城主に任命したのです。
慶長十六年に現在、国宝に認定されている松江城を落成させていますが、
堀尾吉晴は松江城完成直前に世を去りました。
築城の名手と言われた堀尾吉晴は江戸城の他、大阪城の普請にも参加。
伊豆國大川で多数発見されている「分銅紋」を大阪城石垣にも刻んでいるのです。