苔に覆われた転石、うっかり通り過ぎるところでした。

苔に埋もれていた「△」に「・」の刻印が浮かび上がってきたのです。

「△」に「・」の刻印右上、苔に存在が隠されていましたが、

石面の傷ではないと直感、持っていたブラシで苔を落とすと「矢羽根紋」が現れたのです。

ナコウ山石丁場、洞ノ入石丁場で多数見つかる「矢羽根紋」の存在は驚きでした。

「矢羽根紋」は毛利市三郎の刻印とされています。

しかし、毛利市三郎を名乗っていたのは豊後国佐伯藩第三代藩主・毛利高直なのですが、

江戸城修築年代と毛利高直の生存年数が合致しないのです。

寛永七年に誕生した毛利高直、徳川家光の普請発令では僅か六才ということになってしまいます。

筆者の推測ですが「矢羽根紋」を刻んだ大名は毛利高直の祖父、豊後国佐伯藩初代藩主・毛利高政ではないかと思われます。

毛利高政は慶長十一年、城下に修道院を建造しています。

キリシタンと深い関わりがあった毛利高政配下の石工が、キリシタン大名家が多く使用する「△」の刻印を刻んでも不思議ではないのです。

また、毛利高政は関ヶ原の戦いで西軍に付いたため外様大名となり、

江戸城、名古屋城、大阪城の普請に参加しているのです。

つまり、「矢羽根紋」と共に刻まれた「△」「・」の刻印はキリシタンと深い関わりがあった毛利高政配下の石工の手になる刻みでしょう。

周辺の築城石残石に残されている矢割跡が大型で慶長時代から元和時代の採石作業であったことも辻褄が合ってきます。

そして隣接するナコウ山石丁場から洞ノ入石丁場に掛けて多数発見される「矢羽根紋」は毛利市三郎の刻印とするのが通説となっていましたが、

毛利市三郎の祖父である毛利高政の刻印である可能性が高くなったのです。



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