「三」の刻印と「○に三点」の刻印です。
付近の石材の多くに刻まれている組合せ刻印ですが、使用した大名家は不明です。
羽柴越中守(細川忠興)担当石丁場の存在が谷筋下方で確認されていることから、同大名家家臣による刻印であることも考えられますが、
羽柴越中守が担当した以前、同地区石丁場には臼杵藩主・稲葉家(稲葉貞道または稲葉典道)が担当したとの記載が古文書にあり、
稲葉家が使用していた刻印は「折敷に三」であったため、折敷部分を省略して「三」のみを刻んだことも考えられます。
また、田中筑後守(田中吉政)の同地区石丁場の担当記載があり、
「三つ巴紋」を使用していた刻印の省略として「丸に三点」を刻んだことも考えられますが、
至近距離にある別谷筋に集中する「三つ巴紋」の刻印石が存在するため、田中吉政の刻印ではないようです。