大きく深く開けられた矢穴を残す巨石です。

矢穴幅から徳川家康による慶長九年の公儀普請発令直後に作業を行った痕跡ではないかと思われます。

石面上面と反対面側面に「矢羽根紋」が刻まれています。

刻印を刻んだ大名家は毛利家ですが、

石丁場入り口の案内板では毛利高成の石丁場が、資料では毛利高直(毛利市三郎)の石丁場であったと説明しています。

しかし、公儀普請直後の採石は両名の生年では辻褄が合わないのです。

洞ノ入石丁場を含めた周辺の石丁場で刻まれた「矢羽根紋」は

毛利高成の父であり、毛利高直の祖父で豊後國佐伯藩初代藩主・毛利高政ではないかと思われます。

細川文書では毛利高成または毛利高直の記載があるようですが、

実は細川文書、ほか石丁場における記載でいくつかの誤りでは無いかと思える記載を見つけています。

寛永時代に記載された細川文書、先年とされている慶長・元和時代の石丁場担当大名の記載に誤りがあったのでしょう。


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