静岡県松崎町に現存する築三百年以上の木造建築「旧依田邸」。米蔵の柱に残された傷に歴史の謎は隠されていたのか?

先日(2018年5月19日)、静岡県松崎町の旧依田邸(旧大沢温泉ホテル)を訊ねてみました。
建造されたのは江戸時代の元禄年間(1688~1704)、築三百年以上が経過、堂々とした外観と風格ある館内は、歴史の重厚感を充分に感じさせてくれました。

平成22年(2010)、三百年以上前に建てられた母屋、約二百年前に客間として建てられた離れ、幕末に建てられた蔵三棟(道具蔵、米蔵、味噌蔵)が静岡県指定有形文化財に指定されています。

依田邸
伊豆地区建造物では2番目に古いとされる旧依田邸。築三百年を超える。

館内を見学する中、米蔵の柱の傷が視界に入りました。
館内ガイドをして頂いた松本さんの話では、柱の傷は建造当初からあったのではないかということです。
推測ですが、もし元禄年間の材木を流用して米蔵が建造されていたなら、約三百年以上前の材木が使用されていたことになります。母屋の大黒柱を見ると充分考えられることではないかと思った次第です。そう思えたのも柱の傷に見覚えがあったからなのです。

松崎町大沢、旧依田邸米蔵の柱に残る傷。

伊東市内、宇佐美北部石丁場群の桜ヶ洞(さくらがぼら)石丁場、鎌平石丁場、熱海市内、中張窪・瘤木石丁場より刻字する刻印が検出されています。

宇佐美北部石丁場群・桜ヶ洞(さくらがぼら)石丁場の切出し石材に刻まれている刻印。(写真:伊豆石丁場遺跡確認調査書2010/伊東市教育委員会発行)

刻印は「久」の略字とされています。
宇佐美石丁場を担当した大名家は田中筑後守、松平隠岐守、松平越中守、有馬左衛門佐、稲葉淡路守、九鬼大和守そして山崎甲斐守。熱海市中張窪・瘤木石丁場の担当大名家の中にも山崎甲斐守が存在しています。
松崎の依田家は織田信長の甲州征伐により、武田家が滅びた「天目山の戦い」から逃れた依田家の一部が移り住んだとされています。依田家は甲斐武田家とは主従の関係にあり甲州とは深い繋がりがありました。
刻印が山崎甲斐守の刻印であるとは断定できませんが旧依田邸の米蔵に残された傷跡とは歴史的な繋がりがあるのでしょうか?

また、江戸城は寛永十三年、徳川家光の外堀造営を含めた普請以降、明暦三年(1657)・元禄十六年(1703)・安政二年(1855)の大地震により崩落した石垣の修築事業が行われています。
「細川家文書」によると明暦三年の翌年、万治元年(1658)、石屋久兵衛により「伊豆御影石(伊豆南部地区の凝灰岩)」を含めた石材が石材各産地より深川に集められています。石屋久兵衛配下の石工が松崎町の室岩洞付近の凝灰岩を見逃すとは思いません。
旧依田邸各所に見ることが出来る「∧に久」の紋は、石垣構築技術を提供した石屋久兵衛由来の紋かもしれません。石材切り出しに汗を流した石工達が大沢の地に湧出する温泉で汗を流し、主人・久兵衛の「久」の文字を柱に刻んだのかもしれません。

※上記は筆者の推測です。確定している史実ではありませんのでご了承ください。

伊豆大島、岡田・勝崎沖から発見された慶長小判の謎。

昭和32年2月、伊豆大島・岡田地区の勝﨑沖で漁をしていた漁師が海底約20mの水深から黄金に輝く慶長小判を引き上げたのです。その後、周辺海域から慶長小判103枚、一分金63枚を発見。伊豆大島の埋蔵金伝説として語られました。
写真は現在、東京国立博物館で展示されている伊豆大島沖から引き上げられた慶長小判、実物です。

伊豆大島・岡田地区勝﨑沖の海底から引き上げられた慶長小判。一分金も展示されています。

この慶長小判について、なぜ伊豆大島沖の海底に存在していたのか、現在でも謎のままとなっています。
伊豆大島は江戸時代より物流航路の拠点となっていました。多くの商船が岡田港に寄港していたと思われますが同時代、付近で沈没したとされる商船は3隻確認されています。
1663(寛文3)年2月に沈んだ津の功天丸、1705(宝永2)年の宇和島の藩船、第二伊予紋丸、1737(元文2)年、明神丸です。
また、伊豆東海岸より江戸城築城石を運んでいた石載船に慶長11年5月25日、大規模な海難事故が発生。当時の海難事故について古文書に記載があり、鍋島信濃守勝茂の石船120艘、加藤左馬守嘉明の所有船46隻、黒田筑前守長政の所有船30隻が伊豆沖で沈んでしまったのです。
当時、石工たちの給金はお米で支払われていましたが、お米の購入費用や石材切り出し道具の修理費用など多額の金銭が必要であったことでしょう。江戸城築城石石載船に多額の金銭が運ばれていたことも考えられます。
伊豆大島沖の慶長小判と一分金、沈没商船のものなのか江戸城築城石石載船のものなのか謎は深まるばかりなのです。
もし、慶長11年の海難事故に伴う金銭だとすれば、伊豆沖周辺には、とてつもない枚数の慶長小判他金銭が沈んでいることでしょう。 

伊豆大島をシルエットに昇る朝陽。

静岡県東伊豆町稲取の道祖神・八百比丘尼の謎に迫る!

 

静岡県東伊豆町稲取に現存する道祖神・八百比丘尼。

伊豆東海岸、稲取東町に「八百比丘尼(やおびくに)」と言われる道祖神が現存しています。道祖神は伊豆の凝灰岩で丸彫り坐像、神奈川県西部エリアから伊豆東海岸に分布する伊豆型道祖神の形態となっています。
「八百比丘尼」と言われる所以は、稲取の地を訪れた民俗学者・折口信夫先生により当時、現存していた状態から像が女神像で手に持つ素材を見て「八百比丘尼」であると判断したようです。
「八百比丘尼」とは日本各地に語られている伝説ですが日本海側、若狭湾地域で語られる伝説で知られています。
若狭国の庄屋の娘が浜で拾った人魚の肉を振る舞われた際、気味悪がって食さなかった村人達の中、娘だけが食べてしまい、その後800年生き続けたという伝説。現在の福井県小浜市には、八百比丘尼が入定したとされる洞窟が有り、入定地に残る石像と仏殿内の八百比丘尼像が稲取に残る道祖神に類似していたことも一つの根拠となり、道祖神は八百比丘尼とされたようです。
東伊豆町内には多くの道祖神が現存していますが、片瀬地区の道祖神も稲取の八百比丘尼像とやや似ているため、私は稲取東地区の道祖神は八百比丘尼ではないのでは、と疑問に思っていました。

福井県小浜市、八百比丘尼入場の地。

現在、様々な江戸城築城石に関わる研究をする中、熱海市伊豆山礼拝堂石丁場より「羽柴丹後守 けい長九年」の刻字が入った刻印石が見つかっていることを知ったのです。

伊豆山礼拝堂石丁場から発見された「羽柴丹後守 けい長九年」と刻まれた刻印石。

羽柴丹後守・・、丹後宮津藩の初代藩主・京極高知のことです。八百比丘尼伝説が残る若狭湾に面した一国を領主としていました。また高知県、山内神社資料館に残る文献資料に「伊豆國稲取」の文字と共に「京極丹後守」の文字が記されていたのです。八百比丘尼伝説が残る若狭と伊豆稲取が繋がりました。
さらに全国行脚をしたと言われる八百比丘尼は四国地方も訪ね、いくつかの八百比丘尼伝説を残しています。その中、高知県須崎市の神社には八百比丘尼塔が現存し、「高知県保護有形文化財」に指定されています。この神社の名称は「賀茂神社」・・。地元では「賀茂さま」と呼ばれ親しまれています。東伊豆町稲取を含む伊豆南部地方は「賀茂」と呼ばれていますが偶然の一致でしょうか?
更に香川県三豊市高瀬町の威徳院・勝造寺にも八百比丘尼塔が現存しています。建立は古く永和4年3月6日(1378年)とされています。年月を経て散失してしまった塔を再建したのは丹後宮津藩の系譜から繋がる丸亀藩・京極家なのです。再建は1678年、江戸城改修終了の1637年から約40年後、丸亀藩主・京極高豊による再建でした。

高知県須崎市「賀茂神社」に存在する八百比丘尼の塔。
香川県三豊市高瀬町の威徳院・勝造寺の八百比丘尼塔。

伊豆稲取に残る八百比丘尼像と江戸城改修の大号令を発した徳川家康の天下普請により、伊豆の地に石丁場を求めた丹後宮津藩の京極家。丹後宮津藩の系譜が繋がる丸亀藩京極家が再建した八百比丘尼塔。四国を行脚した八百比丘尼伝説が残る須崎の賀茂神社。そして、賀茂地区の稲取。歴史が織りなす物語が一つの線となって稲取の八百比丘尼像となっているようです。
伊豆稲取に採石地を求めた京極家の石工が、目の前の広がる相模湾を望み我が故郷、若狭の海を思い出し、若狭に残る八百比丘尼伝説を石像として帰郷の思いを形にしたのが伊豆稲取東町に残る道祖神「八百比丘尼」かもしれません。

熊本城築城石と東伊豆エリアの築城石

先の熊本地震によって、加藤清正築城の熊本城が多大な損害を受けました。
崩れた城壁と貴重な建造物の報道を目にする度、心痛めております。
熊本並びに大分県他、近隣地域の皆様には早期の復旧、復興をお祈り致します。

築城の名手、加藤清正は、
徳川家康の天下普請により慶長九年、江戸城築城の採石を命じられ、
遠く伊豆の地に参じ、石材採石の事業を行いました。
伊豆と熊本、遠く離れていますが築城で繋がった縁を感じています。

先日、崩れた築城石の一部より観世音菩薩の線画が発見されました。
線画のクオリティの高さに驚愕するばかりです。

伊豆東海岸を貫く古道・東浦路。
東伊豆町内の北川~大川間の峠、割石にも線画が描かれています。
北川地区・マミ穴の石丁場と大川地区・細久保石丁場のほぼ中間地点。
矢割石に描かれた線画は観世音菩薩というより、まるで宇宙人・・。

熊本城築城石観音菩薩
熊本城築城石から発見された観音菩薩。
矢割石線画
東浦路、北川~大川観の峠にある矢割石に描かれた線画。

 

被災した熊本城の櫓を一列の石材が支えた映像を目にしました。
支えた石材は城壁の角に位置する角石(すみいし)。
城壁の要であることが実証された角石ですが、
江戸城の角石の多くが、神奈川県西部から伊豆東海岸より採石されているのです。

多くの角石が江戸に運ばれる中、東伊豆町内の角石のいくつかは町内に留まり、
一部は切り出した状態で山中にそのまま残っているのです。

熊本城角石
熊本城の櫓を支える角石。
畳石
東伊豆町稲取の民家玄関先に残された角石。小口には「御進上 松平土佐守 十内」の刻字。

東伊豆町内の角石一覧は、
http://chikujyoseki.higashiizu-ecotourism.com/chikujyoseki.html

根拠無き立て看板 熱川温泉と太田道灌は無関係

観光客を欺く立て看板
観光客を欺く立て看板

今まであまり気にしていませんでしたが、事実無根の立て看板に怒り爆発です。
太田道灌と熱川温泉、全く関係ありません。 歴史上、いかなる文献を探しても伊豆熱川と太田道灌を結びつける文章が出てこないのです。しかも築城石と太田道灌は無縁なのです。

築城する際、石垣に関して石を切り出して城郭にしたのは徳川時代になってからのこと。豊臣時代以前の築城は全て野面積み、つまり石材は切り出すことをせず、自然石のまま積み上げて城郭としていたのです。

唯一、秀吉が攻め入った北条の小田原城攻めの際、一夜城を造成した石垣に一部、打込積みが採用され切り出し石材が使用されたことが遺構から確認されています。つまり豊臣時代の城郭石材切り出しはこの一例だけなのです。 豊臣秀吉の小田原征伐は1590年、太田道灌没年は1486年。 国内のいかなる城郭を見ても1590年以前の石垣は全て野面積みとなっているのです。

百年以上前にこの世を去った太田道灌が石材切り出しを伊豆で行ったとは奇想天外、全くあり得ないこと。太田道灌が関東管領・扇谷定正の名により江戸城を築城したのは1457年であり、平山城として築城され、石垣は全て野面積みのため石材の切り出しは行われていません。 1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康によって1603年、天下普請の命が下り、江戸城の大改修が始まったのが1604年。

時の幕府は天下普請により豊臣方に加担した西国大名に対して経済制裁とも言える築城石石材調達を命じたのです。つまり、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利していなければ天下普請の命が下ること無く、江戸城改修のための石材切り出しは行われなかったのです。
また立て看板内「村人たちは皆こぞって築城石の切り出しに・・」とありますが、江戸城大改修の時、伊豆東海岸は天領地であり住民は幕府と同等の人格を持っていました。古文書より石材切り出しに際し地元の村民は使用人とするべからず・・、といった内容の厳しい発令がされ「仕事中、雑談するな」「喧嘩はするな」「村民に迷惑を掛けるな」「時間を守れ」「石材の寸法を守れ」など禁止事項が記載されていたのです。

たった一枚の立て看板ですが・・、観光客を欺く立て看板。

2014年、熱川温泉観光協会より築城石に関する書籍が発行されました。こちらも江戸城築城石採石は太田道灌の遺言といった記載がありますが、全くの嘘であり、何の根拠もありません。 観光協会費より制作費が捻出されているようですが協会費には町からの補助が出されています。つまり税金が使われているのです。 嘘も百年言い続ければ事実・・まるで隣国がするようなことが我が町でされていると思うと情けない気持ちで一杯です。 立て看板は即撤去、書籍は即回収すべきでしょう。(書籍は図書館書棚から引き上げられました。)

また、熱川温泉が太田道灌を持ち出したのは、歴史深い稲取とは異なり歴史的な逸話が無い熱川に何か逸話を、と苦慮した昭和30年代?の観光協会事務局が「奈良本一丁目一番地」の地名(住人の名字?)であった「太田」。そこでふと浮かんだのが太田道灌。あまりにも稚拙な思いつき。さらに巻狩に来た太田道灌が発見とは・・。

当時の巻狩とは大規模な軍事演習を意味します。関東管領・扇谷定正の筆頭幹部であった道灌が陸路で大隊組んで伊豆山中を抜け東海岸に来る訳がありません。さらに当時の道灌の行動を考査すれば、東伊豆に立ち寄る時間など全くないほど多忙を極めていたのです。駿府での交渉事の後、韮山の堀越公方に報告によったことは史実で確認されていますが、その後直ちに江戸に帰還しているのです。

海岸沿いに建つ太田道灌像は西伊豆町仁科出身で日本を代表する彫刻家・堤達夫先生の作品です。道灌と熱川温泉が全く関係ないことを知りつつ道灌像を制作したのであれば特に問題ないと思いますが、根拠の無い話を持ちかけて制作して頂いたとなると大いに問題ありではないでしょうか。