静岡県東伊豆町稲取の食文化、「黄飯(きめし)」のルーツを辿る。

 静岡県東伊豆町稲取には「黄飯(きめし)」と呼ばれる食文化が伝承しています。「黄飯(きめし)」はクチナシの実で黄色く染められたごはんで子供たちの健康を願う雛まつりやお祝い事の振る舞いとして食されてきました。

黄飯。臼杵では「おうはん」、東伊豆町稲取では「きめし」
名古屋では「きいはん」と呼ばれています

 クチナシの実で黄色く染められたご飯は大分県臼杵地方にも存在、「黄飯(おうはん)」と呼ばれているのです。東伊豆町の「きめし」と大分県臼杵の「おうはん」に意外な接点を見つけました。

 臼杵は戦国時代のキリシタン武将として有名な大友宗麟(おおともそうりん)、大友氏21代当主の支配下にあった土地です。臼杵城の前身と云われる丹生島城を築城した大友宗麟は、キリシタンとして海外貿易による経済力に優れ、欧州の食文化にも興味を持っていたことでしょう。そのような環境下、バテレンとしてスペインから入国した宣教師によってパエリアが持ち込まれたと思われます。パエリアはサフランによって色付けされますが、サフランが手に入らなかった臼杵では代用としてクチナシを使用したのでしょう。

大友宗麟。

 クチナシにはクロセチンという成分が含まれ疲れ目の回復や睡眠の質を改善することが確認されているほか、栄養価が高く鎮痛・鎮静作用、解熱、消炎作用、止血作用の効果があります。現代風に云えば「サプリメントご飯」と言えるでしょう。この様な効果を知っていたかどうかは判りませんが大友宗麟が配下の家臣たちに振る舞っていたことと思われます。家臣の一人として名を連ねていたのが後の立花飛騨守宗茂であったのです。

大友宗麟の家臣であった立花宗茂。
クチナシの実。

 臼杵城の前身、丹生島城  (にゅうじまじょう)  は天正14年、島津軍の侵攻に遭います。落城寸前まで追い込まれた大友宗麟は城に籠城しますがポルトガル伝来の大砲を使って落城を免れ、その後、援軍を依頼していた 豊臣軍の到着で秀吉の九州平定となったのです。落城寸前の丹生島城場内にて栄養豊富な「黄飯(おうはん)」が戦士を奮い立たせていたのかも知れません。

現在の臼杵城。

 豊臣秀吉の死後、五大老の一人・徳川家康と五奉行の一人・石田三成との確執が激化。慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦を迎え、関ヶ原に勝利した家康の時代となっていったのです。豊臣時代、大友宗麟の嫡男・義統の卑怯な振る舞いに激怒した秀吉によって、大友氏は臼杵を含む豊後一国を改易され、同地は関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った稲葉家によって臼杵藩が築かれました。

 徳川家康は慶長8年、征夷大将軍として江戸に入り、江戸幕府を創設。翌年、手伝普請(城普請、天下普請)として全国13城の改修を命じます。この普請で国家を挙げての事業となったのが江戸の町の造営と江戸城の修築でした。江戸城修築にあたり神奈川県西部地区から伊豆東海岸は築上石採石地として、多くの西国大名が石丁場を形成、その一人として伊豆地区に担当石丁場を持っていたのが立花飛騨守宗茂であったのです。東伊豆地区では伊豆國大川に石丁場を持ち、大川から切り出した石材を運ぶ積載船は、伊豆國稲取に停泊させていたのです。つまり、大友宗麟の家臣であった立花宗茂配下の石工達と操船人夫は稲取の地に存在したことが伺えます。彼らが疲れ知らずの屈強な体を保っていた食材として「おうはん」の存在を知った稲取の人々が「きめし」として後世まで食文化を残したことが東伊豆町稲取の食文化「黄飯(きめし)」のルーツかもしれません。

稲葉典通像(大分県臼杵市・月桂寺所蔵)。

 手伝普請、13城修築の対象となった名古屋城の修築事業(20大名家による修築)には伊豆地区に石丁場を持っていた臼杵藩第2代藩主、稲葉典通が携わっています。名古屋市を中心とした地域にも「黄飯(きいはん)」として黒豆を乗せ、端午の節句に振る舞われる食文化が存在しています。名古屋と東伊豆町稲取に伝承する「黄飯」は、大友宗麟が「サプリメントご飯」として落城寸前の丹生島城で振る舞った栄養満点の「クチナシご飯」がルーツなのかもしれません。

※以上内容は筆者による仮説です。史実は確認されていません。

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