伊豆國大川村の風景に溶け込む和歌山城主、浅野紀伊守幸長の代表紋。

伊豆國大川村(現・静岡県賀茂郡東伊豆町大川)は江戸城築城石の採石地として、慶長時代から寛永時代に掛けて、多くの大名が築城石を切り出し、海上輸送で江戸まで運びました。
採石の名残が大川地区の谷戸山山中を中心に現存、おそらく同地区の殆どが江戸城築城石の採石地であったことでしょう。
石材の運び出しが行われた道を修羅道(石曳道)と呼びます。現在、修羅道があったと思われる痕跡はコンクリートで舗装され、民家が点在しています。良く有る海沿いの集落の何気ない風景の中に、浅野紀伊守幸長(現・和歌山県)の刻印が存在していました。

舗装路横の浅野紀伊守幸長の刻印石。

畑の石垣に刻まれた結三輪違紋。

修羅道と思われる舗装路、谷戸山に向かう延長線上には徳川家の刻印が残る石丁場があり、続いて松江城築城主、堀尾吉晴の担当丁場が現存。その西方向には羽柴左衛門太夫こと福島正則切り出しの築城石「ぼなき石」と担当丁場、そして浅野紀伊守幸長、担当丁場と連続的に繋がっています。
各大名の担当丁場の判断は、同種の刻印の確認から判断されています。近年、発見された古文書等でも他多くの大名が、江戸城築城石採石の地として伊豆國大川村に関わっていたことが実証されました。
残念なことに四百有余年の歴史を刻んだ江戸城築城石石丁場の一部がこの一年間で観光施設の身勝手な行動で破壊されてしまいました。破壊された石丁場は周囲に点在する刻印から加賀藩、前田家担当の丁場と思われます。
二度と元に戻らない石丁場。これ以上、貴重な石丁場が破壊されないよう、願うばかりです。